2024 洲之内徹ベスト・エッセイ1 洲之内徹 ちくま文庫 2024年

洲之内徹ベスト・エッセイ1 洲之内徹 ちくま文庫 2024年

 自身も絵を描いていた画商兼作家のエッセイ。画商として戦前・戦後に絵と向き合ってきたこと、画家とのつきあい、手に入れた絵の来歴、日本軍の戦争体験、戦後の音楽のことなど。
 絵と文章というふたつの表現ができる作者のエッセイの選集。戦前・戦後の画家たちのひたむきな絵への態度や、戦争中の陰惨な話があいまって重く感じられる。出てすぐ読み終えたのになかなか頭に入らず、読み返してもうまく消化できない。手元に置いて長く読み返したほうがいいのかもしれない。口あたりのよい現在のエッセイとは一線を画する。

 絵を描く人でなければわからない話が多い。
 松本竣介のニコライ堂が実在の風景ではなく、いくつかの角度や場所で構成されたものである話など、ファインアート(油絵・日本画など)の前提がわかる人でないと深い意味が見いだせないかもしれない。

 デザイナーと違って、ファインアートの画家は実物を見ないと絵を描かない。それには、写真だとものの奥行きがわからないというのと、あるていど影が落ちる方向を把握しておかないと正確に絵が描けないというふたつの理由がある。
 写真を補助的に使うのはよくあることだが、自分の周囲の画家を見ているかぎりはそうだ。
 写真が発達した現在であれば絵を好きな角度に編集するのは容易だが、戦前の画家がそういうことをしている、そして洲之内さんが現場を確かめてニコライ堂が編集された画角だと見抜くところが、絵をやっている人でないとわからない視点だと思えた。
 うづらの絵を手に入れる過程の話(わりと強気)、「盗んででも欲しい絵」というくだりで、そういう絵が描きたいと思った。

 セザンヌの塗り残しについて、つじつまを合わせないことがセザンヌの非凡の証明だと語るくだりがある。
 セザンヌの絵はあまり真面目に見なかったのでどうだったか忘れたが、つじつま合わせ、あるいは埋め草のように絵の周囲を適当に塗ってしまうというのはよくやることだと思う。

 絵の抜けというか、描き込まないところの処理は意外と難しい。そこを描かないと油絵として成り立たない(水墨画のように余白を残せない)、しかし画面に抜けがないと主題が際立たない。
 ブロックを構成するように絵を描くセザンヌの手法だと、行き詰まったものをそのままにするということもありかもしれないと思う。

 あまり自分の絵を観すぎると、目が慣れて何がいいのか悪いのかわからなくなる。洲之内さんのエッセイにも出てくるが、カンバスの天地を逆にするというのはそれを外すための手段である。が、その経験がない画家がカンバスを逆さにされてショックを受けたというところが面白いなと思う。

 絵から感じることと、絵を見る(絵の本質を見る)のは違うという話。絵を自分の思考から切り離して、考えずに見ることに徹する、という洲之内さんの文章になるほどと思った。
 自分は絵を見て感じる、考えることしかやってないかもしれない。細部ばかり目がいって、本質が見えていないような。
 あと、洲之内さんの時代から絵の勉強は石膏像のデッサンというところがおかしかった。このころから連綿と続いているんだなと。

 彼女は恋を失恋で歌う。まるで世界中の失恋を彼女一人でしているかのように。だが、もし恋をしてみんな仕合わせになってしまうのだったら、こんなつまらないものはないだろう。歌にも詩にもなりはしない。失恋だけが恋愛だ。

朝顔は悲しからずや P249

 中島みゆきの歌を評した一節。その痛みを深く味わえるということが、表現者としての資質だと思う。

この記事が参加している募集

現在サポートは受け付けておりませんが、プロフィール欄のリンクから小説や雑文の同人誌(KDP)がお買い求めいただけます。よろしくお願いいたします。