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餃子とともにいきる その第三回

小学生4年、1970年に豊川から豊橋に転居した。
引っ越しの理由は、父の会社の上司が独居していた高齢のお母様を引き取ることになったから空く家に住まないか、という流れだったらしい。
豊橋駅西口、豊橋駅の裏口となる、少しだけ駅前に商店があり、その先は商住混在の住宅地、子供が育つには環境のいい街だった。
今は人気のエリアだと不動産屋をやってる友人が言っていた。

それまでは豊川から豊橋に行くというのが我が家の一大イベントだった。
年二回、父のボーナスの出た後である。
日曜日、普段よりこぎれいな身なりで両親、兄と四人でバスに乗って豊橋まで移動した。

行って何をするかと言えば、当時あった丸物百貨店、のちに豊橋西武となり今は無いが、まずはそこが目的地。 
今まだそんな言葉が残るのか知らないが、四人でウインドショッピングである。
帰りにはケンカにならないように必ず兄と同じおもちゃを買ってもらえた。
ほかにも個人商店の集積ビルみたいのもあった。
そのなかの名豊ビルの地下に『天華』という中華料理店があった。
ここは私と兄が連れて行ってもらう中では高級な中華料理店だった。
「好きなものを頼め」と父に言われ、やはり兄は素直に一番高い肉団子の甘酢がけとカニチャーハンを、私は普通のチャーハンを頼むといつも母が餃子を頼んでくれた。

私がそのころ口に出来た餃子の中では高級で薄皮の不味くも無ければそれほど美味くない餃子であった。
ラー油はガラスでできた入れ物に、黒いプラスチックの蓋つきの耳かきのようなサジですくうヤツで何回も同じ動作をさせるケチな店だと思っていた。
高級そうな店なのにいつもその蓋がラー油でべたついているのも気になった。
ここは餃子より兄がいつも頼む肉団子の甘酢がけが美味かった。
この甘酢の記憶が今でも私の甘酢の味のイメージになっている。

お隣の浜松餃子が有名であるが豊橋の専門店の餃子も美味い。
豊橋駅西口徒歩一分ほどに『赤のれん』って名の餃子専門店がある。
ここの餃子は美味い、しかも食べた感がある。
たしか夕方5時から開くのだが、開店前からおばちゃんたちが並ぶ、晩飯のおかずであろう。
ここの餃子が晩の食卓に並べば文句を言う子どもはかなり少ないと思う。

分厚い皮、愛知産のキャベツと豚挽き肉でふくれている、包み方は割りとおおざっぱで口が開いている部分もある。
餃子の王将にあるような大型蓋つき鉄板で焼くのではなく、使い込んだ黒い鉄のフライパンである。
フライパンが複数個の鋳物の業務用コンロの上に並ぶ。
必須の蓋はアルマイトの安モノの鍋とセットのやつ、強火のフライパンに餃子を並べてドッと油を上からかけ、横のヤカンで湧かす熱湯をジャッ、と入れる。
出来上がりは半分揚げたような餃子である。
その頃母について行き、その作業工程をジッとフライパンに穴が開くほど見ていた。

社会人となり、まだ母が認知症になる前にどういう理由だったか憶えてないが二人で餃子を食べて帰ったことがある。
二階に上がり狭いカウンターで熱い餃子を食い、生ビールを何杯も飲んだ。
ここの付け合わせは茹でたモヤシ、大盛りのモヤシとともに口いっぱいに頬張る餃子は口いっぱいに幸せを運んでくれた。
「あんた、よく飲むねぇ、、」と母は言っていた。
よく食べ、よく飲んだ、懐かしい思い出である。

ここのラー油は、少し前に流行った『食べるラー油』のように唐辛子部分のほうが多い固形に近いタイプのもの、これが辛くてビールはすすんだのであった。

ほかにも餃子屋は何軒かあった。
母はすぐに勤めだした病院の夜勤明けに深夜営業する中華屋に若い看護師たちを連れて行き、早朝から腹ごしらえし、皆でビールを飲んで若い子らをねぎらって帰ってきた。
その日は朝から土産の餃子を食べて登校した。
また朝から臭い宮島であった。



豊橋の餃子屋に開店前からお母さんたちがたくさん集まってきたのは、たまにはお母さん方も楽をしたいのでしょうが、そればかりではないと思います。
餃子の万人に好まれる味で食卓を囲む家族が喜ぶ顔となり、笑顔が家庭に幸せを運んでくることをわかっていたお母さんたちの愛情だと私は思います。

餃子ラブ、もう少し続きます。

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