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日記のような、びぼーろくのような(2023.05.17 京都大原野の初夏の香り)

京都の端っこの西京区大原野の春はたけなわをすでに通り越していた。
阪急洛西口駅から電動アシスト付き自転車で走る道はほんのひと月前の季節とは様相を変え緑の濃さは増し陽射しの力強さも増していた。

途中、ところどころで田植えの準備を始めていた。トラクターの邁進する田から掘り起こされる虫たちを目当てにサギとカラスが離れない。そんな姿をスマホに収める私をカラスは「あんた何してんの」とでも言いたげにジッと見ている。
この農作業に当たるオッチャンは何を合図に田植えの準備を始めるのであろう。まさかAIに教えを乞うことは無かろう。何百年、いや千年も前から連綿と続く水稲耕作はこの地に住み続ける人間のDNAにも染みついているのであろうか。先祖代々のこの地を耕し日々の汗をここで流し『家族』や『生きる』の中のさまざまもこの田畑は吸い込んでくれるのだろう。日々土と会話しながら働き、生きるこんな生活に憧れを感じないこともない。

放置竹林整備のNPO『京都発・竹・流域環境ネット』事務所の庭にある紅葉も元気である。この赤い紅葉の羽根の付いた種は大きくなって時期が来ればこの樹から離れ風に舞いその幾つかは下の谷川に落ちていつかは桂川に流れ込み、淀川から大阪のどこかの地にたどり着くのかも知れない。
この地から離れることのないように思える樹木ではあるが、そう考えてみれば私の人生とさして変わらないようにも思える。羽根は付いてはいるものの自身の思いで飛べるわけではない。吹いた風に身を任せ、着いた場所で根を張り芽を出して大きく育っていかなければならない。
なんだか親近感をおぼえる紅葉である。

竹もマイペースである。一日たりとも休むことは無い。だから整備を休むことも出来ないのである。もともと日本には無かった竹である。それを持ち込んだ人間には大きな責任がある。660haというわりと大きな面積の竹林面積が京都市内だけにでもある。(ピント来ないが、東京ドーム140個分の広さ。もっとピンとこないかも知れないが。)とにかく広大な面積の多くは手つかずの放置竹林、いや荒廃竹林となっているのが現状である。
そのほとんどは個人の所有のものであり、所有者の高齢化により整備などに手は回らない。防災の観点から行政は大きな問題としてとらえ、過疎の進む京都市内の山間部での過疎対策の一策としてもとらえている。ただこの中に仕組みを作り循環させていくのには人も金も要る。私たちの生活が変わってしまい昭和の頃のように竹が生活の中に入り込むことは少なくなってしまって、竹という素材が金に結び付きにくくなったのも整備に手をかけない理由でもある。
でも誰かがやらなければならない。そして、この竹から新しい「生きる」を生み出していかなければならないのである。

午後は京都市を交えての「竹の学校」の講座開講の打合せである。市民ボランティアを育てて竹に関心を持ってもらい、健全な里山を育てながら過疎対策に寄与し、ひいては健康な老人を育てて医療費を抑えていこうと。防災のみならず一石二鳥どころか三鳥、四鳥の目論見である。
私はその前に帰らせてもらった。
途中の国道の表示は30度、他所に違わぬ暑さの夏日であった。
京都の熱い暑い夏は今年もやって来るのである。

何かをやってもやらなくても季節はまた巡り来て時間は経つ、ならば何かをやって生きるのが人間だと思う。
私は人間としての営みの意味を考えて生きるのみである。

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