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合気道の稽古

一日前のぐずぐずした冬空は一転し、身の引き締まるような冷たい朝を大阪は迎えた。
仕事を終え、遅れて稽古場に着くと老若男女のメンバーが熱心に稽古をされている。
教える立場でここに足を運ぶ人の事を言うのもおかしな話であるが、皆さんが休日である日曜日に自身の時間を使ってまでどうして合気道の稽古に来るのか不思議でならなかった。

私は合気道が好きで忘れることが嫌で稽古を続けてきた。細々とではあるが忘れたくなく続けてきたのである。私にはここに至った経緯がある。たまたま始めた合気道は大学の合気道部。やめれば大学まで行きにくくなるような雰囲気のある体育会の合気道部に入ってしまった。そこで合気道の面白さを知り、ご指導いただいた師範、多くの先輩、同輩、後輩との人間関係も出来上がり、それは大学を卒業しても綿々と続いて来たのである。

六十で他界してしまった師範との二十年間もの生きて来た時間に違いがあった。二十歳で出会い、その時すでに親子の年齢であった市橋紀彦師範との稽古は道場を出ても続いた。生き方そのものを教えていただいたのである。いつも緊張して先生の荷物運びをしてお供をさせてもらった。歌舞伎町の先生の行きつけの飲み屋で飲んでも、アカシアのロールキャベツを食べていても、先生のお宅で先生が湯がくうどんをご馳走になっていてもいつも緊張していた。そして先生はいつも気を遣ってくれていた。
卒業する時、歌舞伎町の居酒屋『三汁一菜』で「これから生きる世の中すべてを道場と思え」と言葉をもらった。

それから四十年が過ぎ、先生が亡くなって二十年が過ぎてすでに先生の享年を私の歳は越えた。当たり前の順番なのであるがこれもまた不思議な気持ちでいる。
いつまでも市橋師範は私の心の中で生きており、私は師範から言われた稽古の場である道場も生きるこの浮世も道場と考えこの先も稽古を続けていく。

私は合気道だけをして生きているわけではない。家庭もあり仕事もありそして合気道がある。それは市橋師範の望むことでもあった。「合気道バカになるな」と言われた。「あ、宮島さんは合気道をされているんですか」と、言われたいといつも思う。外見で分からぬ人の内面と同じである。

市橋師範も今考えれば私たちを見て「なんでこいつらは合気道を続けているのか」と思ったかも知れない。
人の心は分からない。だからこればかりは市橋師範も分らなかっただろう。
私は市橋師範との出会いで合気道を続けてきたということを。

人それぞれである。皆それぞれの動機と思いがあってこの道場に足を運んでくれればそれでよく、それ以上何も考える必要はないのだと思うのである。


市橋紀彦師範の動画です。
やらせではなく、私たちはいつもぼろ雑巾のように投げられていました。
二人目の受けは私の一年先輩です。
東條英機のお孫さん、先輩にも先輩のお母さんにも大変世話になりました。この一番合気道に近かった先輩が今合気道から離れてしまったことが残念でなりません。


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