耐力を備えるということ
周りからはあまり物事を深く考えないお気楽なヤツと思われてる節がある。
しかし、実は細かく先のことを考えるのは嫌いじゃない。
ただ、それが無駄になるであろうと思われる時には考える事をしないのである。
当たり前のことを書いているなと自身で思っているが、この見極めが難しい。
毎年この時期に定例となっていた兄の定期検査入院はずっと延期になっている。
愛知の施設から静岡の病院まで連れて行く。
まずは前日に愛知まで行き一泊する、翌朝早く自動車で静岡まで移動する。ついたらすぐに検診があり、その後脳波測定器を頭に装着して24時間の測定が始まる。終了までの間、トイレへの移動、食事とも自身で思うように動けなくなっている兄貴の介助は大変である。
深夜も24時間のビデオ撮影も付録で付いているから電灯は点いたままである。
それで昼近くまで兄貴はベッドでじっとしており、私もそばで寝ることも出来ずにうつらうつらしている。
その後担当医師から特に感動の無い検査結果を聞き、解放されて愛知まで兄を送って夜遅くに私は帰阪する。
拷問のような『検査入院付き添い記』であるが、こんなことは全然気にならない。
事前に分かっているからだ。
数少ないてんかん専門の国立病院には日本全国から患者さんは集まってくる。
緊急だったり、重篤だったりもする。
そんな先の見えない皆さんは本当に大変だと思うし、不安だろうと思う。
先が見えないってことは本当に辛いものである。
もともとは鈍感な振りが出来るような男ではなかったのだが、ゼネコンで営業をしていた頃にある上司に鍛えられて変わった。
まだ三十代に入ったばかりだった。
いろんな経緯でその部長の下に配属された。
まったく自分の時間のない三年間であった。
毎週初めに週間スケジュールを提出させられた。
その通り行動出来たことはほとんど無かった。
逆に私の予定にわざと違う予定をぶつけてくるようにも思えた。
自分の主張もし、口喧嘩もしたが、所詮初年兵と古参鬼軍曹である。
勝てるわけはなかった。
そのうち予定を立てるのは止めた。
しかし、それでストレスを無くすことの出来る相手ではなかった。
それから24時間365日の先の見えない営業が始まった。
その頃は会社に行くのが嫌で仕方なかった。
でも不思議だが、いつしかそれが当たり前になり、その頃その部長とは離れた。
そして、京都営業所に配属替えになり、一人で行動するようになったのだがスタイルの変わらぬ営業を続けた。
その部長のお陰でなにがあっても変わらぬ顔で、急な事や予想しなかった出来事に適応することが出来るようになっていた。
夕方帰社すると、航空券を渡されて「今から札幌に飛んでくれ」と言われ二度最終便で北海道に向かった。
阪神大震災の時には当日なんとか会社にたどり着くと「これから神戸に行ってこい」と言われたまま一ヶ月帰れなかった。
『備えあれば憂いなし』は当たり前のことで、備えることなく有事に直面してしまった時の対応する力は経験しか育ててくれないと思う。
こんな非常識なことやとんでもない有事ってのは滅多にないのだが、時々ある。
なってしまったことはどうしようもない。
前向きに捉えて有事への対応する力、耐力が必要な時がある。
なってしまったことにストレスを感じること無く受け入れる。
苦痛と感じること無く、「またか」くらいで済ませれたらいい。
この歳になればその耐力を狡猾さというのかも知れない。
長く生きることにより育てられる生き易さはこんなことなのかも知れない。