青い空と冬枯れを感じた日
気まぐれな天気である。
急に師走らしい寒さの大阪となった。
空気は冷え乾燥し、空は青く澄んで高くなるこんな季節が嫌いじゃない。
子どもの頃生活した愛知県東三河地方は太平洋岸気候でこれからの時期は毎日晴れる。風は案外強いかも知れない。そんな北風をしのげる建物の影を探すとそこはずっと私が来るのを待っていたような私が来るのを知っていたような優しい陽だまりがあった。
そんな陽だまりはどこにでもあった。社宅の屋上に一人本を持ってよく上がった。誰も来ない屋上の陽だまりで岩波少年文庫や母の暮らしの手帖を読んだのである。先の読めない自身の不安から逃避のための場所であったのかも知れない。
そのうち太陽は悪戯するかのように傾き少しずつ陽だまりは小さくなる。そして最後に私を陽だまりから追い出すのである。安堵の時間、安心の時間は未来永劫続くものではないと教えてくれていたのかも知れない。
この冬の青い空はそんなことを私に思い出させてくれる。青く澄んで高い空は私に安堵と焦燥を教えたのである。
まだ先であろう本当の冬枯れも好きである。もの悲しく寂しくさせてくれる冬枯れが好きなのである。一人を感じることの出来る冬枯れが好きなのである。冬枯れたススキの原っぱを歩くのが好きであった。企業団地のアパート群の空き地のワンブロックが枯れススキの原っぱだった。一人でそこを歩くなと母から言われていたが子どもの私の足には便利なショートカットの原っぱだった。背丈ほどのススキは北風を遮り私の頭を残念そうにかすめて行った。立ち止まれば北風の過行く音ばかり、感じるのは私の存在と陽の暖かさだけであった。孤独と優しさがそこにはあった。
青い空と冬枯れをその頃感じていたのである。
上手くは説明出来ぬ感情が青い空と冬枯れを目にし、陽の暖かさを感じると今もどこかから湧き出てくるのである。