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大寒の夜風に頬をなでられて

大寒に入ったばかりの昨日、夕方いつもの時間に合気道の稽古に向かった。
先週よりも外は明るく赤く焼けた西の空の白い雲が美しかった。
気がつけば手袋を忘れて出て来たが木刀を握る手は冷たさを感じてない。
着実に季節は移ろいつつある。
誰もが心弾む春へと向かっている。

こんな温かさを感じる冷たい空気を吸うと、東京への大学進学が決まった春を思い出す。あれやこれやと私以上に忙しく準備をする母がいた。父は長く不在、兄は静岡の病院から出ることは叶わなかった。

母は若い頃にしばらく東京で看護師をしていた。東京での一人の暮らしは誰にも気兼ねすることが無く楽しかったと言っていた。山形の田舎の農家で生まれ育ち古い因習に縛られた生活から解き離れた母は、故郷を離れる寂しさよりも花の東京での暮らしが楽しかったのだろう。母にもそんな時期があったと思うとなんだか嬉しくなる。

兄を不具でこの世に産み落としてからは一時たりとも兄から目を離すことなく、手を引いて兄と生きて来た。92年の母の生涯で一番楽しかった春爛漫の季節だったかも知れない。毎日新しい事と出会い、初めての人と会話し、目にすることすべてが新鮮でそこで淡い恋心も芽生えたりしたのかも知れない。まるで昨日の夕のようなうきうきする気持ちで送る毎日だったのではないだろうか。母は私をそんな思い出深い東京に送り出してくれたのである。

「格好悪いから一人で行かせてくれ」と言ったが「伸一がいないから送る」と言うからもう何も言わなかった。母に新幹線の切符を買ってもらい豊橋駅から二人黙って座って東京に向かった。八重洲地下街の中華屋で焼き飯と餃子を食い、ビールも飲んで母を改札で送った。何を喋ったかは憶えてない。
「飲み過ぎるな」「喧嘩するな」「風邪ひくな」と言われたんだろうと思う。

こんな事は母が生きているうちに思い出したことはなかった。気のきいた一言でもかけてやればよかったと後悔する。しばらく八重洲地下街に行ったことは無いがあの頃とはずいぶん変わってしまったのだろう。東北の人間が上野駅に辿り着くと半分帰った気がすると言っていた。私にとってはこの八重洲地下街が上野駅なのである。そんな思い出のある八重洲地下街なのである。

大寒の夜風が私の頬をなで思い出させた40年も前の出来事である。どこの家族にもあろう物語の一頁である。

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