私の人生における『餃子』の存在について
私は餃子が好きであるが、毎日餃子ばかりを食べているわけではない。
ただ、私にとって餃子は特別な食べ物であり、この先まだ生きていく過程において餃子という存在が無くなってしまったら、かなり寂しい人生になってしまうことは間違いないと思う。
私は食べること、酒を飲むことが好きであり、その二つはいつもセットであったように思う。小学生低学年の頃、日曜の夕方に帰りの遅い父を母の指示でパチンコ屋に迎えに行かされた。その帰りに当時まだ珍しかった専門店『餃子屋富士』に寄り餃子を土産に買って帰った。カウンターだけの店、メニューは餃子と酒とビールしかない。父は酒を美味そうに飲みながら、その横で私は水を飲んで餃子が焼けるのを見ていた。若い男の店主は無口で怖そうに見えた。でもその焼き上がった餃子は母がスーパーの総菜屋で買ってくる餃子とは違った。酢醤油が美味く、ともに食べる付け合わせのキャベツの千切りが美味かった。父は黙って嬉しそうに私の顔を見ながら酒だけを飲み一人前の餃子を私に食べさせ、土産の餃子をぶら下げて母と兄の待つアパートに帰った。
大学に入り合気道部の同期生の住む隣駅のすぐ近くにあった餃子屋に入った。そいつも気にはなるが一人じゃ入れなかったと、私について入って来た。当時でも少なかった木枠の引き戸の入り口はガラガラと音をたて、異界のような広くない店内に続いていた。L字型のカウンターには7,8人で一杯、そのなかでやはり無口な初老の男が私たちを迎えた。メニューは餃子と酒とビールのみ、予想通りであった。餃子とビールを頼み、二人でビールを飲みながら『じゃりン子チエ』のお好み焼き屋のオッチャンに似た店主が黒い鉄のフライパンで餃子を焼くのを眺めながら「いつか見た風景に似ているな」と思った。合気道部のOBの監督の横暴に耐えかねて、後輩たちのために離縁状を突き付ける直前だった。毎晩同期生三人で話し合った時期だった。
社会人になって私は間違ってゼネコンのサラリーマンをやっていた。振り返ればバブルが弾ける前だった。外回りを終えて帰社しても定時で帰れることは無かった。時間は遅くなり、空きっ腹を抱えた若い連中を連れて終電まで酒を飲んだ。金が自由にならないその頃、会社から京橋駅に向かう餃子がメインの中華屋が一番私の懐に優しかった。そこの店の親父はよくしゃべる外交的な人間だった。ある日、仕事中に御堂筋でばったり出会った。スーツ姿の親父に私は声をかけられるまで気がつかなかった。営業回りをしていると名刺を渡された。聞けば小さな餃子屋からスタートしたと言う。そして京橋の店はテナントかと思いきや、なんと買取った自社ビルだということだった。「本店に一度遊びにおいで」と言われた。
大阪と隣接の兵庫県のその本店はよく知る駅の近くにあった。阪神淡路大震災で駅舎がつぶれ、その当時にそのそばにあった食品スーパーの本社によく行っていたのである。夕方に打合せを終えて一人で店を探した。本店はカウンターだけの小さな店、詰めても10人座れないような店だった。早い夕方の時間に店内はすでに一杯で外で待っていると親父が私に気がついて出てきた。「よく来てくれたね」と、生ビールのジョッキを手渡されてまだ昼間の残る暑い熱気に焼ける餃子のニオイが漂うなかで席が空くのを待った。テイクアウトのお母さんたちも並んでおり、豊橋の駅裏の餃子屋を彷彿させる店だった。
その後、店舗を増やし、梅田の百貨店の食品売り場にそこの餃子を見かけるようになるのに時間はかからなかった。
私の身体は餃子だけで出来上がっているわけではない。私はそんな餃子屋で長居はしない。餃子を1人前か2人前、ビール1本、酒1本、諸物価高騰前であれば千円前後の会計で「さよなら」する店である。そんな餃子屋の餃子は当たり前だが「美味い」。
懐に優しく、心に優しいそんなたくさんの餃子屋に世話になってここまで生きて来た。滞在時間は短いが、残る記憶が色濃いのが不思議である。たまたま、その時に何かを抱えて生きていただからだろうか、餃子を他の食べ物に置き変えて想像するがなんだかピンとこない。そして、残念なことにそんな餃子屋は今、私のそばには無い。でも流れ着いた大阪で死ぬまで生活するのかどうか分からない。なんとなくそうはならないような気がいつもする。だから、そのうちまたそんな餃子屋に出会うことがあるだろうと思っている。
『餃子ラブ』私の純粋な餃子への気持ちはいつまでも変わらず私の生涯が閉じられるその日まで続くと思う。