JR西日本 大阪環状線寺田町駅
大阪環状線寺田町駅、大阪環状線を大阪駅から見てほぼ対称に位置するのが天王寺駅、その一つ手前が寺田町駅である。天王寺駅まで歩いて15分はかからない。桃谷駅も同じくらいの近距離である。両隣の駅に近すぎるこの駅は、大阪城公園駅のようにあとから無理やり付け足した駅ではなく、長い時間をかけて環状の路線が出来上がった過程で存在してきた駅である。
東京の山手線と同様に環状の路線は初めから環状を目的として建設された路線ではなかったということになる。
この寺田町に奈良から転居し四年間生活したことがある。奈良で不登校のため中学にほとんど行かなかった息子は大阪の私立高校に通い出し、この間私が息子の食事の一切を賄った。弁当を毎朝持たせ、私も弁当持参で会社に行く毎日だった。
この間を振り返るとある意味幸せな時間を過ごせたように思う。息子の不登校に関しては息子の足らずと、出来損ないの親である私に大きな非があると心得ているが、出来の悪いサラリーマンにも劣る中学教諭と校長が存在したことも事実である。この間のやり取りは息子の人生において『こうあらねばならない』という既成概念を破ったであろうからもうそれでいいと思っている。
息子が陶芸をやってみたいと自分から言い出し、息子が見つけてきた二人で通った陶芸教室はこの寺田町だった。日曜日の四天王寺までの散歩が日課に加わり、古書市、骨董市が楽しみだった。
父はまだ一人で新幹線で愛知から出てくることが出来た。母はすでにアルツハイマーと診断されていたが、まだ兄と二人残してきてもなんとか普通に近い生活は出来ていた。毎回日帰りで出てきてくれた父も骨董市は楽しかったようだ。孫との会話があり、二人が見つける骨董の趣味は似ており血のつながりを感じたりもした。息子が毎回新大阪駅まで父を送っていった。
愛知に帰れば一人でアルツハイマーの妻と初老に向かう長男を支えなければならない父には息抜きにも命の洗濯にもなったに違いない。
でも、この頃から私は愛知の実家まで毎月帰るようになっていた。父の肝炎の病状はこの頃からスピードをあげて進み出し、父の身体と精神を蝕んでいった。
おかしなもので大黒柱が揺らいでしまうと家のあちこちにガタが来てしまうように母のアルツハイマーは急に進行し、父との諍いは絶えることはなくなり徐々に母の人格をねじ曲げていった。自身の日常を送れぬ者が人のケアなど出来るわけがない。兄の病状も次第に変化して悪化していった。
父と喧嘩し母に介護認定を受けさせ、介護サービス会社の社長に頼み込みルール違反は承知で家族三人の食事を用意してもらい、何かあらば私の携帯まで電話をもらえるよう段取りをして大阪での仕事に支障のないようにしたのだが事は簡単に運ぶわけはなかった。
他人を台所まで上がらせ嫌な顔をする母が慣れるまで仕事を抜け出し何度も新幹線に飛び乗った。
それでもまだ幸せだったのである。我が実家での最終戦争が始まる前の平穏な時をこの寺田町で過ごしたのである。