我が故郷、そして餃子
愛知県豊橋市、私が多感な中学時代を過ごした土地である。
子どもは生まれ育つ土地を自ら選ぶことは出来ない。まだ空気中に漂い自分の影も形もない時に、誰かに選ばれて母となる女性の肉体に宿るのである。
それを宿命というのであろうか。
そして気がついた時にはそれを疑問に感じることなく当たり前に生を始めるのである。決して選ぶことの出来ない家族という器にはめられて生を続けることが定められた人の営みなのである。
故郷との出会いは不思議である。家族という器と同様に生まれ育つ場所をなぜ選ばせてくれないのか不思議である。もしそんなことをしてしまえばどの国の今の人たちと同じように、見かけだけが豊かな大都市に一局集中してしまうとでも考えるのであろうか。
決してそんなことはないと思う。少なくとも私は人の集まらない、ものを考えることの出来る場所で生まれたかった。山があり谷があり、潮風が吹き、川が流れ魚を捕まえ自然とともに生きることの出来る場所で生きたかった。そんな意味では私が豊橋という愛知県の東三河エリアという土地で生まれ育ったことは案外希望を叶えてもらえたのかも知れない。野山も川も海も私の近くにあった。自然は何もかも飲み込んでくれて私に多くを教え、考えさせてくれた。
器である家族にも恵まれたのかも知れない。不具を背負って苦業僧のようにこの世に生の火を灯す兄はずっと私に考えることを修行として与えてくれた。その兄を守り生き抜く母と父の背中は私を曲がった道に進ませることはなかった。
そして家族四人の食事はささやかながらいつも温かかった。仕事を終えて急いで帰ってきた母に付きまとう私を母は厭うことなく応えてくれた。子どもながらにも母が疲れていることも私と兄のために気が急いていることも感じ取っていた。母の優しさが幸せの時間を生みだしてくれた。そこでは何を食べようと構わない。一汁一菜がその場の雰囲気でどこで食べる豪華な食事にも劣らない最高の晩餐になっていたのであった。
でも、時々母は急な残業で自宅への電話で私を使いに走らせた。私は豊橋駅裏にある餃子屋まで家族の人数分の餃子を求めに行った。早い夕方、開店直後に店に着くともうすでに何人ものお母さんたちが店内のレジの前で列を作って並んでいた。焼き上がる餃子を誰もが無言で待っていた。それが自宅でメインの一品となるのか、すべてのうちの一品になるのか。それはどうでもよいのである。当時まだまだ外食などメジャーじゃなかった頃の贅沢とも言える行為であり、餃子は家庭に幸せを運ぶ使者だったのである。
へこんだアルマイトの蓋をのせた鉄の黒いフライパンがいくつもコンロに並んでいる。蒸し焼く蒸気が蓋の間から立ち上り、焼き上がった餃子の表面は黄金色のパリパリで、白く半分透き通った残りの皮は私に餃子は麺類であることを教えてくれた。
そんな焼き立ての餃子をカウンターで食べる仕事帰りの職人らしき男たちがビールを飲みながらこれまた無言で餃子を貪るように食っていた。
でも私と私の家族が口にした餃子は違う。持ち帰るために木の紙である「経木」に包まれ、茹でたモヤシと油分の少ないラー油が添えられていた。経木とモヤシは優しく餃子に湿り気を与える。店で食べるパリッと焼き上がった触感とは違い、少し柔らかくなり、熱々でなくなった具はキャベツの甘みまで私に感じさせてくれた。モヤシなど食べることのない兄がこの時ばかりは美味そうにモヤシを食べた。餃子と一緒に口をいっぱいにしてモヤシを食べた。粉トウガラシの塊っぽいラー油を酢醤油に少しずつ溶かして、大人の辛さをマネするのも嬉しかった。
ああ、餃子よ、餃子。
私にとっての餃子はただの食い物ではないようである。故郷に山があり、川が流れるように、私には餃子がある。餃子を口にすれば思い出す多くの記憶がそこにはある。そしてこの餃子という「食」はいつも引き金となって私に多くの記憶を呼び起こす。毎回違う記憶を呼び起こす。それはもう二度と思い出すことはない記憶なのかも知れない。そんな大切な記憶を呼び起こしてくれる餃子をなんと例えればよいのだろう。
餃子よ、お前は私にとっての「心の故郷」と言ってもいいのかも知れない。
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