餃子とともにいきる その第四回
1980年、二十歳でそれまで約二年間、豊橋の魚市場で過ごした生活に区切りをつけて上京した。
消去法で選んだ大学は西武池袋線、池袋から三つ目の江古田にある。
東京の私鉄会社の創始者が起こした学園、たぶん創設当初は武蔵野の端ではあるが緑も田畑も残る自然豊かな場所だったのではないかと思う。
大阪に住みついてからずっと思うのは、東京のほうが緑が残る街だということである。
そんな意味では私は大阪より東京のほうが好きである。
上京当時、愛知の我が家には母と私しかいなかった。
父は仕事でインドネシアの山奥にいたと思う。
兄は静岡市にある現在の静岡神経医療センターに、てんかんの服薬調整のため長期入院をしていた。
私が家を出ることで一家離散状態になった。
母も寂しさを感じたのだろう、上京当日になって「私が東京まで送る」と言い出した。
「えー、」とは言いながら断る理由も見つからず、豊橋駅で切符を買ってもらい新幹線に乗り込んだ。
東京駅に着いて母は「ここで帰る」と言う。
二人で八重洲口の地下街で中華料理屋に入った。
改札の先から降りて行って地下街の右か左に歩いて行って突き当りあたりにある中華料理店であった。
時間は夕方に近い午後、まだ客はいなかった、すみっこの四人掛けのテーブルにつき、早い夕食を済ませた。
ここでも私はまた餃子とビールだった。
それまで毎日母とは話をしていた、別れると言っても今生の別れじゃない、取り立てて話をすることも無く、たぶん母の「体に気をつけるのよ、酒を飲み過ぎたらだめよ」と、どこの母親でも口に出す言葉をふんふんと右から左に聞いていたことと思う。
改札で見送り、消えていく母の後ろ姿を今でもおぼえている。
気の利いた話でもすればよかったのにと今でも後悔する。
苦い餃子を食べたのはこの時が最初で最後である。
大学の四年間はほぼ合気道の稽古が中心の毎日であった。
大学の稽古のほかにも新宿若松町にある合気道本部道場にも通った。
私の同期は男ばかり三人しかいなかった。
市橋紀彦師範門下の大学、青山学院、明治同志会の連中とは同期の二人と同様に仲良く今でも付き合いをしている。
私たちが出ていた稽古は朝8時から9時、そのあと近くの喫茶店で市橋師範とモーニングを食べながらコーヒータイムを楽しむのが日課となっていた、、と書きたいところであるが、多くに時間は我々の足らずや、失態のお説教の時間であった。
いつもそばの席には道場長や若い師範たちが座り、こちらを笑って見ていた。
これも懐かしい思い出である。
三年になり午前中の授業は受けることが出来ないことがわかってきて、稽古に行く曜日の午前は皆フリーにするようになった。
いつものように稽古が終わり、市橋先生とも別れ、腹ごしらえに新宿駅付近をよくウロウロしたが、何度か当時のションベン横丁、今の思い出横丁にある『岐阜屋』に行った。
なんだか私の好みの当時から年季の入った中華屋であった。
通りに挟まれて両面が出入り口、食い逃げがしやすい店だと思ったが、そんな感じの客は一人もいなかった。
学生服に道着は風呂敷に包み、当時でも少し浮いた外見だったかも知れない。
だから事件も時々起きた。
岐阜屋でも昼からビールを飲み、餃子を食い、焼きそばを食って皆と別れて大学に戻り、また稽古した。
学業に関してはあまり真面目ではなかった。
実はこの大学の四年間、それほど餃子は食べていないかも知れない。
本部道場近くでモーニングを口にする以外は昼は毎食ほぼ学食の150円の大盛りカレー、夜は酒を飲んで終わっていた。
餃子に対しても不真面目な日々を送っていたが、餃子はいつまでも私を忘れないでいてくれた。
当時でもギリギリ過ぎたのですが、私たちは大学4年の夏合宿まで合気道部の幹部でした。
就活は4年の秋から、それでも皆しっかりした会社に就職しました。
おおらかな誰もが生きやすく、生きにくい人間をみんなで応援する風潮の残っていた日本でした。
この先、餃子とともに私の人生は先に進みます。
次回、社会人編で終了させていただきます。
餃子ラブ、あと少しだけお付き合いください。
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