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ある男の『カキフライ考』
知らぬ間に秋はどこかに去り行き、冬がやって来ています。さて、一昨日故郷愛知に帰って来た男の話です。
愛知県でも三河地方は太平洋岸気候で冬期は晴天が続き、乾いた冷たい北西風がいつも吹く、洗濯物が非常に乾きやすいお母さんたちに優しい地域です。その昔、この男がまだ子どもの役を演じていた頃、その乾いた冷たい風を利用して組んだ櫓(やぐら)に大根を干した姿が渥美半島での風物詩だったそうです。たくあん漬けが盛んだったあの頃の櫓を今見かけることはありません。たくあんの時代は終わってしまったのでしょうかね。代わりに今、男たちが目にするのは見渡す限り濃い緑のキャベツ畑です。
ちなみにあの「きゅうりのキューちゃん」の東海漬物の工場はこの渥美半島にあります。
さて、男は野暮用でまた愛知まで行っていました。この時期の愛知、冬の豊橋や渥美半島を男は嫌いじゃありません。大阪からの新幹線、ローカル色溢れた豊橋鉄道渥美線に乗り換えての3時間は、誰とも口をきくことなく、生きるわずらわしさを忘れることのできる男の大切な時間になっているのです。
行き着いた三河田原駅は渥美線のターミナルです。そこで無料の自転車を借りて三河田原市の街をうろつきます。冷たい北西風に身体は凍えます。
男はいつもこんな時には豊橋で過ごした魚市場時代を思い出しています。十代に自分で手を上げ働き出した市場の仕事は途中で逃げ出したくなるほど辛かったそうです。扱うものは重く、冷たく、濡れた軍手も作業服からも湯気が上がるほどきつい仕事だったそうです。でも人間てのは強くできてるようです。一度経験した辛さは二度目からは辛くはなく、慣れてしまうことができるようですね。今では良い思い出となっているようです。
野暮用は遅い午後まで続き、田原で暮らすお兄さんと別れを告げて渥美線に乗り込みました。まだ残った陽は広がったキャベツ畑の向こうの、海岸線の風力発電のプロペラのまだ向こうの、三河湾のそのまた向こうから男の背中を照らしました。その温かさでそれまで感じていなかった疲れをじわじわ感じだし豊橋駅までの30分ほどを死んだように寝ていました。
駅に着くと新幹線のこだまは発車したばかり、次のこだまの来る一時間、男の向かう場所は決まっていました。豊橋駅から一番近い立ち飲み屋です。客は完全にリタイヤされているお父さんと、たぶんフライングであろうサラリーマン二人組でした。長居をするほど時間もなく、男はとりあえず生ビールを注文し、メニューに目をやったのです。地元三河湾で採れた魚やアサリを出すその店でふと目を惹いたのは「カキフライ」でした。
基本的に貝類はそれほど得意じゃないこの男、それでも今年はまだ口にしていないのを思い出し、「カキ1串って1粒ってことなの」と聞くと、いえいえ2粒ですよ、と返事が返ってくる。メニューの串かつの欄に並ぶそのカキフライを男は何の疑問も持たずに「じゃ、1串」と他の揚げ物とともに頼んだのです。
口にすれば海が広がるカキのあの味が嫌いじゃないのです。それもカキならカキフライが一番美味いと思っていたのです。
ご両親もお兄さんも大好きなカキフライだったようです。そんな思い出もありカキフライは男にとって家族を思い出す特別な味だったのでしょう。
揚がってきたカキフライはほどよくこげた黄金色で好みの揚がり具合に男は目で満足し、熱い串を用心深くつかみ、これまた用心して口に運んだのです。
パリッとした歯応えに一瞬頬が緩んだのですが、「ん、」、男の脳は混乱していました。いつものあの海の味は広がることなく、固い歯応えと、想像と違う甘味が口の中を占領したのです。
でも「あ、カキだ。間違いなく柿だ」と男はすぐに悟ったのです。1串100円のカキフライ、それを見た時点で「安すぎる」と気がつかなきゃならなかったのも、三河湾で牡蠣はあんまり聞くことはないことも、まあ男は疲れていたのでしょう。
男はすぐに腑に落ち脳のチャンネルを切り替えたのでした。
視覚のマジックといいましょうか、人はいかに既成概念のなかで生きているのかを男が悟った豊橋での早い夜の出来事でした。
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