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キャベツのお浸しの日

見た目のそれは冬キャベツ。
『愛知県産春キャベツ』と表示され、
スーパーの野菜コーナーに鎮座する。
なぜ、この時期の春キャベツ。
不思議が私に囁いた。
連れて帰れと囁いた。
買って家に連れて来た。
茹でて食べたら甘かった。

冬キャベツ、春キャベツにはそれぞれ種類がいくつもあり、それぞれ生育時期が違う。数か月の間に渡りスーパーにそれぞれのキャベツが並ぶのにはそんな理由があるそうである。私たちがそれを知らないだけだと農家の息子から聞いたことがある。なんとはなしに茹でたキャベツはしっかりしており、ロールキャベツに巻いたら美味そうでもあったが、今日はお浸しの気分だった。

キャベツはよく口にするが、お浸しにすることはめったにない。
母がよくこのお浸しを作っていた。冷蔵庫に作り置きのキャベツのお浸しがよくあったように記憶する。その上にかかったカツオ節ではない安価なサバ節が美味くなかった。不思議だがそんな味を憶えているのである。好きなものではなくて、好きではないものの味、無理して食べたから憶えているのかも知れない。

そしてキャベツのお浸しを口にする父の姿も憶えている。仕事から帰りステテコ姿で食卓に向かい冷酒ひやざけを飲みながらお浸しに箸を運んでいた。遠い昔の記憶、全てはセピア色、キャベツだけが黄緑色である。昭和の味、昭和の記憶である。

スティーブン・キングを初めて読んだのはいつだったろう。
文庫をハジから読み続けた。そのなかの短編集にあった『トウモロコシ畑の子供たち』をキャベツを見ると思い出す。アメリカの広大なトウモロコシ畑のなかで繰り広げられるキングの恐怖の世界である。故郷愛知のキャベツ畑もまあまあ広大である。全く違う畑である。キャベツ畑じゃ子供でもとてもじゃないが身を隠すことは出来ない。あの背丈の高さほどあるトウモロコシだから恐怖は生まれる。キャベツ畑は安心して見ていることが出来るのである。

いつも下らぬことを考え、思い出して料理し、食す。日常とかけ離れたことを考えるからいいのだと思っている。心の健康のために料理し、食す。

私たちが子供の頃には無かった『食育』という言葉。意識してこのような言葉を使い『食育基本法』なる法律まで出来上がった事にはいささか不思議を感じる。自身の目で見て、口にしてみて家庭で生まれて来るもののような気がする。
寂しい話だが、そんな言葉が必要な時代になったということであろう。『生きる』に不可欠な『食』、ならば『睡眠』『排泄』にも同じような子供のうちから育てる考えや法律があってもおかしくないと思ったりする。

脈絡があるようであまり関係ない、こんな事をいつも考え包丁を握っている。


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