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この世から無くなって欲しくなかったもの  『半ドン』

このピンボケ写真は私が初めて社会人となったゼネコンの京都営業所の事務所内、1985年昭和60年のものである。

パソコンは無く、電話は共用で、伝票帳票での経理処理が当たり前だった。

もちろん携帯電話なども登場する前だった。


『半ドン』、この死語と化してしまいつつあるこの勤務形態は当時の私には嬉しく、わくわくする待ち遠しい時間であった。

高度成長期は終わり、世の中は安定してバブルに向けて時間は動いていた。

仕事は忙しく事務所の3階にあった寮の自室に夜10時前に戻れることはなかった。

なのにこの土曜日の半ドンだけは特別であった。

朝から皆さん大した仕事はしていない。机上や引き出しの整理を毎週のルーチンにしている方もいた。

朝からもう帰ることしか頭にない、そんな感じの午前中であった。

いつも小言を言い続ける事務課長は機嫌が良く、いつもヒステリックに若い女性たちをピリピリさせてた大局のおば様も私にまでお茶を運んでくれる。

それくらい皆もこの『半ドン』が待ち遠しかったのだろう。

11時から掃除を始め平日と比べられないほど丁寧に掃除をし、それでも余ってしまう12時の終鈴の鳴る時間までは普段はそうでないくせに、仲睦まじく楽しくおしゃべりをする。

チャイムの鳴り終わったとたん、「お疲れさま」、「また来週」と事務所からは誰もいなくなった。

そして私は一人近くにあった『萬福軒』でいつものあんかけチャンポンをすすって事務所に戻った。

事務所は半ドンに出来ても現場は動いていた。営業事務所は土曜日も留守番が必要だった。

時間と人のストレスは無く、静かな事務所で建設業経理事務士の勉強を少しだけし、実家に長距離電話をして両親の無事を確かめ、事務所をくまなく調べた。

事務課長の引き出しには水曜日に連れて行ってもらった先斗町の小料理屋の領収書を発見した。会社の経費で落とすのだろう。

営業部長の引き出しからはもう時効であろう談合のマル秘書類を発見し、業界の勉強を勝手にした。

何も教えてくれない会社であった。すべてを手探りで自分で考えた。そして妄想した。


当時のそのゼネコンは面白い組織であった。

各現場が独立した会社のようなもので現場所長にすべての責任が任された。

もちろん金もである。

今の大手ゼネコンはどこも集中購買で現場所長に取り決めの権限はないであろう、しかしその頃はその現場所長が持つ権限が、協力業者さんたちとの義理と人情にうまく絡み合わされて最初から赤字の現場も最後は黒字で竣工出来たりした。

現場所長の度量と頭脳と人間性でどうにでも出来たのである。

夕刻に近づくとぽつぽつと現場から人がやって来る。

所長が書類を取りに来たり、メッセンジャーボーイが現場の書類を届けにやってきたりした。

必ず誰かが「宮ちゃん、行こうか」と手を口に持っていき私を誘ってくれた。

所長や先輩方にずいぶん世話になった。

行きつけの近所の居酒屋で腹いっぱい食べ、飲み、いつもセットになっている近くのスナックで歌を歌い、そのままタクシーで祇園まで行った。

午前様で帰り日曜は昼まで寝ていた。

そんなのん気な時間が毎週繰り返されていた。


どんな時間を過ごそうとも無駄な時間はないと私は思う。

やってみなければ分からない事が世の中にはたくさんある。

『半ドン』のあったあの頃、時間はゆるゆる流れていた。

良いことではないが、月に100時間残業しても文句を言うものはいなかった。

それでも元気に働いていた。

メリハリのあるゆるゆるした時間は働きながらも私たちの身体も心も癒してくれた。

完全週休二日制となっても私のまわりで『半ドン』を惜しむ声は長く聞かれた。

皆、半ドンのあったあの頃の土曜日、ピクニックに出かけるようなストレスの無い気分の出勤が良かったのではないだろうか。

営業に身を移し、苦行の末に受注を目の前にして、ウキウキして会社に向かった朝のあの気持ちと似ていたような気がする。

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