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冬の公園の前に立ち思ったこと

昨日の朝、我が家のバアチャン猫ブウニャンを病院まで連れて行った。人間の年齢で90歳を越えているようであるが、そう見えない容姿は得なのか損なのかよく分からない。限りある命である。「よくぞここまで頑張ってきたなぁ」と声をかけるが「ニャァ~」の返事に人間のような老いを感じることは無い。

点滴を受けて、冷たくなってきた空気を切って自転車で帰る。毛布に包み顔だけ出したカゴの中のブウニャンが鼻をヒクヒクさせている。たまには外の空気が気持ちがよいのかも知れない。人間の言葉をしゃべることのないブウニャンの気持ちをいつも勝手に憶測するのだがどこまで当たっているのか時々気になったりする。まあ、外の空気も嫌じゃないだろうと、私の勝手で散策に付き合わせる。通りかかった公園の前で自転車を止めた。

平日の午前、もちろん子ども達はいない。犬を連れた中年男性と、ご老人の団体がゲートボールをやっている。公園は子どもだけのものではない、皆で入れ替わり使った方が公園も喜ぶことだろう。そう考えると子ども達だけが喜ぶ遊具ばかりがそろえられているのはなんだか不公平なような気がして来た。でもすぐに、子どもの事を相手に張り合う自身を大人げないなと、馬鹿な考えは止めた。

私は往復の道が同じなのが好きじゃない。学校の通学路ってのも好きじゃなかった。行きは班編成での通学、勝手は出来なかったが帰りは違う道を歩きいろんな場所を知り、いろんな店をのぞき、どこにどんな人が住んでいるのかを知った。ブウニャンと病院に向かう時は最短の道を走る。帰りはブウニャンを付き合わせてずいぶんこの町の地理を知った。
聖徳太子の時代から続く地域である。法隆寺から四天王寺に向かう街道沿いには弓削ゆげ鞍作くらつくりなどの地名が残る。ここの地名も太子に由来して太子堂である。今は住宅地と変わりつつあるが真っ直ぐな水路があちこちに走るかつては田と畑のエリアだったのである。

この水路がゼネコン時代厄介だった。当時水路は国の所有であり市町村が管理していた。もう使われていない水の流れていないものでも水路は水路であり、それで土地は分断されてしまうのである。この水路が真ん中に通る土地の利用を所有者から相談されたことが何度かあった。一体化して地型を良くし、面積を広く利用するために行政に相談した。国の所有であるのだが長い歴史のなかで既得権を持ついろんな登場人物と話を付けたり時には金を払ったりと、最終的には付け替え(迂回)や廃路を行えたりしたが、上手くいくことの方が少なかったと思う。
不動産に慣れてくると、初めての土地を調査する際には、まずは法務局にある地図でこの水路や里道の所在を確認するようになっていた。

職業病のようなものであろう。ブウニャンと残された時間を過ごすこんな時にでもそんな面白くも無いことを思い出し公園の四方を見渡していた。
「すまんな、ブウニャン」と声をかけて家に向かって自転車を走らせた。


公園の前の椿
猫に椿


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