カント『判断力批判』
静岡なんちゃらかんちゃら大学の「哲学(笑)」の講義で提出したレポートのコピペです。ちなみに授業は単位落としました。出席点ないって聞いてたのに、、
カントの『判断力批判』における美の認識様式
①カントと著書『判断力批判』について
カントは「批判哲学」を樹立した近代の哲学者である。中でも彼の、第一批判『純粋理性批判』、第二批判『実践理性批判』、そして本レポートで取り上げる第三批判『判断力批判』の三つの批判書は自身のバイブルとも言える。「批判」とは、「或る能力の可能性を吟味することでその本質を捉え、それによってその能力の限界を見極めること」である。本レポートでは、第三批判『判断力批判』によって記されている「美」に関する事柄を読み取り、それを論じる。
『判断力批判』は主に、美と芸術の問題を取り扱って、広く文学者にも大きな影響を与えた書である。「可知的なもの、すなわち上位能力によって認識されるものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である」(バウムガルデン『詩に関する若干の事柄についての哲学的省察』より)という言葉が言うように、芸術の魅力などの論理学では解明しきれないものに対するカントの普遍的な考え方や、人が何かを美しいと認識するまでのプロセスが事細かに書かれている。
②趣味判断について
カントによると「我々が、或る対象を美と名ずけるために必要とするところのものは、趣味判断の分析によって発見されなければならない」とされている。この「趣味判断」を四種類の様式で分け、それぞれを説明することによって、美的判断というものの本質を明らかにしていく。
③趣味判断の第一様式 −『性質』−
この第一様式で美的判断において鍵となる「趣味」という言葉の、次のような詳細な定義付けが行われる。
「趣味とは、或る対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の関心に関わりなく適意或は不適意によって判定する能力である。そしてかかる適意の対象が即ち美と名づけられるのである」
(カント『判断力批判 上』より)
ここでいう「関心」は日常で私たちが使う意味も含むが、もう少し広義なもので、「自身の欲求や利害へ関係のあるものへ向く意識」という意味も含んで使われている。また、カントによると、趣味の判定は傾向性を持たない主観的判断によって行われなければならない。客観的判断によって行われる判定は美学的判断や趣味判断ではなく、論理的判断になってしまうからだ。「傾向性を持たない」という部分も重要で、趣味判断において判断者は対象またはその表象を一切の関心を欠いている状態で判断するので、その主観には傾向性が生まれないはずだというのだ。そして主観的判断によって快の感情(適意)に結び付けられるものが「美」、不快(不適意)の感情に結び付けられるものが「醜」、ということになる。
④趣味判断の第二様式 −その『分量』−
次のようなことが推論され得るとカントは言う。
「美は概念を用いずに普遍的適意の対象として表象させるところのものである」(同書より)
この文章を分かりやすくすると、「美しいものは誰にとっても快く感じる(美しいと思う)」ということである。このようなことを言える根拠は第一様式で述べた趣味判断の『性質』による。何かに対して快いと思うこと(「適意」を感じること)が、関心と一切関係ない主観的判断で行われ、しかもその主観が傾向性を持たないとすると、誰においても「美」というもが同一であるべきなのだ。
この点を正確に言えば、「そう思い込んでいること」というのが過不足ない叙述だろう。例えば、引用部をそのまま日常に置き換えると、自分が好きな音楽を他人に勧めて、その人もその音楽を気に入ってくれる場合もあれば、そうでない場合もある。後者のような場合の時、私たちが純粋な趣味判断によってその音楽の美学的価値を認めているのならば、その価値をその人が理解することを要求して良いということになる。そこまでするような人はいないだろうが、多少なりとも「なんでこの曲の良さがわからないんだ」と思うはずである。これこそが純粋な趣味判断をしたという自覚(実際には出来ていないとしても)となる。このことに関しては第四様式でも言及がある。
⑤趣味判断の第三様式−趣味判断において考察される目的の『関係』−
カントは趣味判断の規定根拠を第二様式の引用部、「概念を用いずに、かつ普遍的に伝達できるような満足」としている。このようなものが普遍妥当的に万人に満足を与える理由がある対象の表彰における主観的合目的性にある、としている。
「合目的性」とは、何かの目的を達成するために理に適っていること、あるいはその特性の尺度である。しかし何かの目的を持って作られ、その目的が明らかになっているものに対して私たちが下す判断は趣味判断とは異なる。主観的合目的性とは、いわば「目的なき合目的性」、「合目的性の単なる形式」である。つまり「何のために存在するのかは明らかではないが、これは何かの目的に対し合理的である」と直感的に感じることで、私たちは趣味判断で対象物を「美」と認識する。
例えば、切れ味の良い包丁があったとして、私たちはそれが「ものを切断する道具」だと分かっているため、その目的に対する合目的性である切れ味がいくら優れていようとも、そこに美は見出さない。もちろん一部の主体はそれを美しいというだろうがその場合、彼にとって包丁はもはや「ものを切断する道具」ではない(それ以上のものである)と言えよう。美とされ得るものは「普遍的に」、「概念を用いずに」表象されなければならないのだ。
⑥趣味判断の第四様式−対象に関する適意の『様態』−
「我々が趣味判断に帰すところの主観的必然性は条件付きの必然性である」
「趣味判断を標榜する必然性の条件とは共通感のことである」
(同書より)
第二様式で述べた普遍性の根拠とそうであるための条件について説明したのがこの第四様式である。そして、引用の通りこの条件こそが「共通感」なるものである。「共通感」とは、私たちの認識能力(構想力と悟性)の自由な遊びから生じる結果のことである。ここでの構想力とは、直感における多様なものをまとめる力であり、悟性とは、この多様なものを概念によって統一するものである。この二つの比率は与えられる表象によって異なり、それが適度に調和する時、私たちは快の感情を持つとされている。或る表象とそれに認識能力をはたらかせ得られる結果には必然的な結びつきがある、というのが共通感である。確かにこの観念が成り立つという前提のもとならば、誰かが趣味判断において美としたものを、他の誰かも美とする「普遍性」が成り立つ。
⑦終わりに
カントの純粋な趣味判断における四種類の様式について述べた。彼はこの他にも「付随的な美」に対する判断や、崇高についての考察なども、この『判断力批判』において試論している。興味深かったのは、「美の理想」とは存在の目的を自分自身の中に持つ「人間」ではないか、という意見だ。他者を「手段」ではなく「目的」と捉える、いかにもカントらしい考え方だ。主観的合目的性の鑑賞を「美」の本質と置く以上、人間の中でも「美の理想」と呼べるのは一部の者に限られるだろうが、そんなロマンティックな考え方が、カントにもあったことは非常に面白い。
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