「テセウスの船」のパラドックスの解決
テセウスの船という思考実験をご存知だろうか?というのも失礼なほどこの思考実験は誰でも知っているパラドックスだ。だが一応、確認しておこう。
テセウスの船
という問題だ。ここで問題になるのは「同一性」という概念である。この思考実験の面白い所はそれは「どちらも同じテセウスの船だ」という場合と「テセウスの船と新しい船は異なる船だ」という場合でそれぞれ矛盾らしきものが出てくることだ。それでは詳しく見ていこう。
「どちらも同じテセウスの船」
この立場を取るあなたが当たる困難は別の思考実験で呼び起こされる。
思考実験にはこのように先程まで肯定していたのとほとんど同じ条件なのに、シチュエーションを変えたことで納得し難い結論が得られてしまう物が多くある。
もちろん先程までのテセウスの船同様にワープ入り口にいたあなたAとワープ出口に再生成されたあなたBは同じあなただということは可能だ。あなたBはあなたAの記憶も引き継いでいるので、記憶こそあなた自身のアイデンティティ(同一性)だと考えればいいだけだ。しかし次のような状況ではどうだろう。
あなたを構成するものが記憶だとした場合、上のようにどちらもあなたの記憶を持っているケースが考えられる。するとあなたはどちらが本当に自分と同一だと思うだろうか?あなたを構成していた原子のほう?この思考実験はスワンプマンの思考実験*¹と同根だ。
この立場に立つ際に問題となるのは、自分を構成するアイデンティティ(同一性)が何に依存しているかを突き止めなければならない*²という困難だ。そしてその問題は同様にテセウスの船にも寄りかかっている。
「テセウスの船と新しい船は異なる船」
この立場を取るあなたは、不可識別者同一の原理に対して掛けられる問題を解決しなければならない。
不可識別者同一の原理とは、哲学者G.ライプニッツにより唱えられた同一性の定義付けである。個物$${x,y}$$について$${x=y}$$となるのは、次の場合そして次の場合だけである;
$${x}$$が$${y}$$のもつあらゆる性質をもち,かつ$${y}$$が$${x}$$のあらゆる性質をもつ
例:タモリと森田一義
さてこれがどのようにテセウスの船に関わってくるか見よう。不可識別者同一の原理はある個物どうし見比べてみてその性質がまったく同じならそれらは同一の個物とみて良いのだった。
するとたしかに、テセウスの船と今交換を終えた新しい船とはすべての部品が異なるのだからすべての性質も異なるはずだ。したがって不可識別者同一の原理からテセウスの船と新しい船は異なると言える。ところで、ここで新たな思考実験をしてみよう。
これはテセウスの船とまったく同じ構造だ。したがって、船が異なると答えたあなたは10年前のあなたと今の自分が異なる人‥別人であることを認めなければならない!
あなたは10年前のあなたとはすべての細胞の点で異なっている。しかし、あなたという個物を構成する性質は細胞だけではない、今の身長が何センチであるだとか、なんkgであるだとか、極めつけは何歳であるだとかいろいろな性質があるだろう。そしてそのように考えるとあなたと10年前のあなたにはほとんどなんの共通点もないことがわかる。
ではやはりあなたと10年前のあなたは別人なのだろうか?もちろんそのように考える立場もあっていいと思うがふつうこの結論はあまりに不合理だ。
同一性の問題の解決
時間的指標の導入
私と10年前の私が別人という不合理を解決するためにあなたを構成する性質に時間的指標というものを加えることにする。
時間的指標:「t時点でのあなたは~という性質も持つ」
すると「中学生一年生時点で150cm」,「生まれた時点で体重3000g」,「2023年時点で20歳」といった性質をあなたも10年前のあなたも持っていることになる。したがって、あなたと10年前のあなたは同一人物である。少なくとも時系列に従った同一性の問題はこれで解決する。
しかし、次のような状況ではこの同一性は保たれない。
このような想定をしたとき、時間的指標は役に立たない。なぜならあなたの性質は現時点から見て「今から1秒後のあなたはくしゃみをしている」/「今から1秒後のあなたはくしゃみをしていない」となり、同じ時点tで異なる性質を持つことになるからだ。
一つの解決策は本当に別人としてしまうことだ。だが、その場合分岐する寸前のあなた自身と分岐したあとのあなたのどちらと同一なのだろうか?
もう一つの解決策はもっと単純に、時間的指標を付け加えたのと同様にそこに世界的指標とでもいえるものをさらに付け加えればいいのだ。
世界的指標:「世界$${w}$$で、t時点で、あなたは~という性質を持っている」。
分岐する前の世界を$${w_0}$$とする。分岐した世界をそれぞれ$${{w_1},{w_2}}$$とする。「$${w_1}$$で今から1秒後にあなたはくしゃみをする」/「$${w_2}$$で今から1秒後にあなたはくしゃみをしない」とすればこの問題は解決する。
世界を貫く同一性
不可識別者同一の原理は時間的指標や世界的指標にまで拡張できるのだった。ところで先程の世界が分岐するという例が唐突であまりにSFチックすぎると思われたかもしれない。
本来の世界的指標はもう少し哲学的に定義づけられている。ここでの世界とは実際に現実世界から分岐するようなものではなく、可能世界という形としてあるのだ。
可能世界とは「Pが可能だ」というときそのPが実際に成り立っている世界のことを言う*³。例えば「僕が鳥なら、君の元へ飛んでいくことができただろうに」という場合、現実では鳥ではないので君の元へ飛んでいくことができないと言いたいのだろう。しかし、この文は明らかに「僕が鳥なら君の元へ飛んでいく」ことが可能な世界について想像しているはずだ。
そのように可能な世界の集合を可能世界と呼ぶ。この可能世界が純粋に思惟の対象なのか実際に存在するのかは意見が分かれるところ*⁴だが、とりあえず哲学的な術語としての世界であることだけ了解してくれればよい。
実はテセウスの船のパラドックスは私たちの日常の言語感覚(「もし~なら、だったのに(実際はそうなっていない)」という反実仮想)において再び問われるべき問題となる。
貫世界同定
可能世界というものは可能な世界の集合なのだから、無数に考えることができるだろう。そこで、とある二組の人物$${x,y}$$について世界$${w_1}$$では$${x}$$と$${y}$$はどんな点でも同一の性質を持たないとしよう。次に世界$${w_2}$$ではある一点以外は世界$${w_1}$$と全く同じで、ある一点、例えば$${xとyの身長}$$という性質だけ入れ替わっているとしよう。先程見たように世界的指標をつければ世界が違っても同一性を保てるのだった。このようにして世界$${w_3}$$では$${w_2}$$での$${xとyの足の大きさ}$$を交換する、世界$${w_4}$$では$${w_3}$$での$${xとyの手の形}$$を交換する‥‥というようにどんどん交換していく。
このように世界から世界へ$${xとy}$$の性質を入れ替えていけば世界$${w_n}$$での$${x}$$の性質がもともとの世界$${w_1}$$での$${y}$$の性質になるような世界$${w_n}$$に行き着くだろう。また世界$${w_n}$$での$${y}$$の性質は世界$${w_1}$$での$${x}$$の性質になっている。
このとき世界$${w_1}$$での$${x}$$は$${w_n}$$での$${y}$$と同一である(不可識別者同一の原理より)。逆も同様。しかし、世界的指標によるとどんな世界の$${x}$$もその直前の世界の$${x}$$と同一であるはずでこれは矛盾である。
世界をまたいでも同一性が保持されるという立場を貫世界同定者という。この立場はこのテセウスの船の世界ver.とでも言えるこの交換を解決しなければならない。
「このもの性」
貫世界同定者はこの困難に立ち向かうため、「このもの性」という概念を導入した。このもの性とは世界から世界へ移動しても絶対に交換できない「私自身」のような性質があるとするものだ。上のイラストで言えば$${x,y}$$というその人自身を表すものは世界をまたいでも入れ替えられない。「このもの性」のような特権を認めれば確かに解決するが、正直歯切れの悪さも感じる。
そもそも世界から世界へかけてすべての性質を交換したなら、姿形だけでなく記憶や考え方までも交換されたはずで貫世界同定者がいうような「このもの性」は一体なにに由来するのかが不明瞭なままだ。
このように貫世界同定を擁護するには困難が多い。しかし、「私が急げば、遅刻しなかったかもしれない」のような文すら言えないのはそれはそれで不合理である*⁵。そこで貫世界同定を認めない立場を紹介して本稿を終わりたい。
対応者理論
貫世界同定を認めない立場でもっとも有名なのはD.ルイスによる対応者理論($${\textit{ counterpart theory}}$$)だろう。この理論は現実世界の私と可能世界の私は別人だが対応者(counterpart)ではあると考えるものだ。ではどのようにその対応者が決まるのか?それは現実世界と可能世界を見比べて、最も私に近い性質をもった存在を対応者と決めれば良い。その可能世界においてその対応者は他のどんなものより私に似ているはずだ。このようにルイスは現実世界と可能世界にはどんな同一性も存在せず、類似性のみがあるという対応者理論を提示した。
この対応者理論はたしかに「このもの性」のような煩わしい考え方をしなくてもよい。しかし、私たちが可能性の話をしているとき、ただの似ている他人について語りたいのかという疑問は残る。たしかにこの点は対応者理論がクリアしなければならない難題である*⁶。
終わりに
「テセウスの船」という思考実験について考えてみると「同一性」つまり「同じとはどういう意味か?」についての深い議論が隠されているのがわかった。思考実験とはこのように奥に脈々と議論されてきた背景を持っているので、調べれば調べるほど面白いものだ。
脚注
*2;私の人格の同一性がなにに依存するか?は重要な問題の一つであるが本稿では詳しく扱わない。身体説や心理(記憶)説などがある。参考文献のノージックに詳しい。
*3;可能世界とはライプニッツにより提示され、20世紀には様相論理学に意味論を与える道具立てとして用いられた概念だ。可能世界は「Pは可能である」や「Pは必然的である」といった様相の問題が世界の量化の問題であることを明らかにした。
*4;可能世界が現実世界のなんらかの要素から成り立っているとする現実主義と可能世界自体がさもパラレルワールドのように実際に存在すると考える可能主義がある。現実主義にも可能世界を普遍の一つと考える実在論の立場と可能世界とは命題や文や粒子の組み合わせといった現実にあるものから構成されるという唯名論の立場の対立がある。
*5;「私が急げば、遅刻しなかったかもしれない(実際には私は急がなかったので遅刻した)」という反実仮想は私が急いでいたような可能世界を考えることなしには言えない。
*6;もっとも有名な反論は後悔に関する反実仮想だろう。「あのときあの宝くじを買ってれば、私は億万長者だったのになあ」というとき、現実には私はその宝くじを買わなかったため億万長者になってない。しかし、この文が言いたいことは「私が宝くじを買わなかったこと」に対する後悔ではないだろうか?もし対応者理論が正しいとすると私は赤の他人(宝くじを買い億万長者に成った可能世界の私の対応者)を見て後悔しているのだろうか?あるいは対応者を羨んでいるのだろうか?
我々は実際にはこうなっているが事情が変われば我々自身には何が起きただろうか?ということを知りたいのであって、似ている他人のことに興味など無いのではないだろうか。
参考文献
ロバート・ノージック,『考えることを考える<上>』,青士社(1997)
ディヴィッド・ルイス,『世界の複数性について』,名古屋大学出版会(2016)
三浦俊彦,『可能世界の哲学』,二見文庫(2017)
『ワードマップ現代形而上学』,新曜社(2014)