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寛容のパラドックス~多様性嫌いの原因考察~
寛容のパラドックスというパラドックスをご存知だろうか?寛容のパラドックスとはカール・ポパーの著書『開かれた社会とその敵』で紹介されたものだ。ポパーは「社会が無制限に寛容であるなら、その社会は不寛容に対して不寛容になるべきである」という。
寛容の原理
寛容のパラドックスを詳しく見る前に私たちの社会はなぜ寛容であるべきかについて確認しておこう。
$${principle of charity}$$(寛容の原理)という言葉は哲学者ドナルド・ディヴィッドソンが打ち出した考え方だ。これは相手の議論に対しただ否定するのではなく、可能な限り相手の意見を合理的に解釈すべきだとする規則とでも呼べるものだ。
つまり相手の意見が明らかに合理性に欠けていたり一貫性を伴っていない場合を除き、その意見を聞かないという態度‥不寛容な態度をとってはならないという原理だ。(相手の意見をただ否定するのではなく、より合理的な代替案を唱えるべきという原理でもある)
これは実際には哲学においての原理であり、拡張して科学的な主張に対する原理でもある。実際に寛容の原理はよく古典作品の解釈で適用される。哲学においてはたとえばプラトンの著書において文意が一読しただけではハッキリしない箇所があったとしてもできる限り前後の整合性を考えて合理的に解釈するという姿勢のことを言う。また、合理的解釈ができない場合はプラトンに非があるのではなく、自分の解析に誤解がある可能性をまず探るべきという姿勢のことでもある。
あるいは他の分野において、たとえば数学基礎論において、公理主義や直観主義という別々の規則から成り立つ数学の基礎づけが存在するがそのどれが正解というわけではなくそれらすべてを(論理的に十分ならば)容認するという考え方に現れる*¹。
しかし同時に社会的にも必要な原理であるようにも感じるだろう。
社会的に現れる寛容の原理
例えば紛争や戦争、さらには個人レベルでの喧嘩などまでも、相手の言い分を否定せずに互いが受け入れ合えるなら避けられるはずだ。暴力による解決は言論におけるただの否定と同様だ、とするならば。
現代の憲法には推定無罪という原則がある。これは容疑者が実際に有罪と判決をくだされるまでは無罪として扱うという規則だ。まさしくこれは寛容の原理に基づいていると感じる。というのも容疑者の意見と警察や被害者の意見が食い違う場合に、一方的に容疑者を有罪扱いするのは不寛容な態度であるからだ。
このようにして寛容の原理は社会通念にも必要なものであることが確認できた。
寛容のパラドックス
さてここからが寛容のパラドックスの説明だ。
寛容な社会というものはすべての主張に対して寛容でなければならない。
すべての主張の中には他の主張に対して不寛容な態度をとる立場も含むはずだ。
したがって寛容な社会は不寛容にも寛容でなくてはならない
これは確かに矛盾に感じる。さらにここから次のように続く;
寛容な社会は不寛容を容認する。
不寛容な立場は他の立場を排斥するはずだ(不寛容なので)。
したがって、寛容な社会では不寛容な立場しか残らなくなる。
これも明らかに矛盾に感じる。
社会が寛容であるならば不寛容を認めなければならず、不寛容を認めるならば寛容な社会はなくなってしまうというため、これは確かにパラドックスに見える。
ポパーはここから、寛容な社会では不寛容に不寛容であるべきだと結論する*²。(これも明らかに矛盾であるが)そうしなければ、寛容な社会というものが保てなくなってしまうためである。
この意見が正しいかどうかは今回は議論しないが例えば不寛容な態度はただ排他的な行動であり寛容に接する価値のある主張ではないなどして矛盾を解消する動きはある。
多様性のパラドックス
寛容のパラドックスと似たパラドックスとしてよく多様性のパラドックスが挙げられる。多様性とは画一的ではなく様々な種類があるということだ。
寛容/不寛容という対立は私たちの日常言語にあまり馴染みなく感じるが、多様性という言葉は良くも悪くも昨今はありふれた言葉になりつつあり、親しみ深い。
自然科学における多様性
自然界においては種の多様性のように客観的事実としての多様性を見ることができる。
たとえば、様々な場所の探索が進んだ現代においても新種の昆虫などは頻繁に発見される。それは昆虫という種が非常に多様性に富んだ生態をしているからだ(さまざまな環境で進化しうる)。
したがって自然科学としての生物学などにおいては多様性は確実に大切なしくみだ。
ただしこのような客観的事実としての多様性には「良い/悪い」という評価は正しくない。現に多様性に富んでいるというだけだ。(私たちはそこに種として生き延びるために多様性に富むことはいいことだのように目的論的意識で見がちだ)
あるいは科学的実験や統計においても多様性は尊重される。ここでの多様性は様々なサンプルを対象にするという意味だ。というのも少ないサンプルでは単純に偏った統計や実験結果になり得るからだ。
人文科学的・社会学的多様性
だが同時に多様性という言葉は今日では、社会学的意味でよく使われるのを聞く。ウィキペディアから引用すると;
2001年11月にユネスコにて採択された「文化的多様性に関する世界宣言」の第一条では、「生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである。この意味において、文化的多様性は人類共通の遺産であり、現在及び将来の世代のためにその重要性が認識され、主張されるべきものである。」と規定されている。
とあるようにここでの多様性は文化多様性のことを指す。ただし最近は遺伝的多様性のように現に多様であること(黒人と白人の違いや太りやすいなどの遺伝的特徴)も文化多様性と同じような意味で使われているように感じる。また性的嗜好性の違いに関してもそれを現に違うものとして多様性と認める考え方が広まっている(LGBTQ)。いわゆるマイノリティと呼ばれる立場の保護のために使われる概念として多様性という言葉が使われるとき、それは少なからず社会学的(/政治的)意味をもつ。たしかにマイノリティが排斥されるような社会であってはならないだろう。
しかし、多様性を社会が保証するのは「寛容のパラドックス」を招く。見てみよう;
多様性を認める社会というものはすべての多様性を認めなければならない。
ある多様性を非難する立場も多様性の一種であるはずなので認めなければならない。
したがって多様性を認める社会は多様性を認めない立場も多様な立場として受け入れなければならない。
もしそうなら、多様性を非難する立場は多様性を排除するはずだ。
したがって多様性を認める社会では多様性は存在しなくなる。
これはまるっきり寛容のパラドックスの構造だ。したがって寛容のパラドックスの解決同様私たちは多様性を認める社会に制限を掛けねばならない。すなわち多様性を認めない立場を社会から排除しなければならない、となる。
しかし、このようなマイノリティ(少数派)の保護としての排除が、マジョリティ(多数派)の排除に繋がってしまうと感じるためにこの結論を受け入れられない立場の人が存在してしまうことが今日の多様性嫌いを作り出しているように感じる。
多様性嫌い
解決方法は寛容のパラドックスと同じであるにも関わらず多様性の話はより激しく(大衆的な)議論を生んでいるように感じる。それは先程も言った通り「寛容/不寛容」という言葉より「多様性」という言葉がより卑近であるためでもあるだろう。
多様性嫌いはSNSなどでもたまに見かけるが、彼らは単にマイノリティへの差別主義者ばかりであるわけではないように感じる。
というのも多様性嫌いな彼らはおそらくマイノリティではなくマジョリティに属する人間であるために、多様性という言葉が万能すぎるように感じているからかもしれない。
どういうことか。例えば以下のような事例を考えよう;
男性であるBさんはゲイであることを告白しており、同じく男性であるAさんに想いを寄せている。ここでAさんはふつうの女性が好きであるとし、Bさんの恋愛感情を受け入れられないと断った。
さて「多様性のパラドックス」の解決方法からするとこれはマイノリティの排除に繋がってしまうのだろうか?(すなわちマイノリティであるBさんの主張を受け入れられないAさんは差別主義者なのだろうか)
おそらくほとんどの人はAさんとBさんは性的指向が異なるだけで差別的感情はないと考えるだろう。そしてここにおいては性的マイノリティであるBさんとマジョリティであるAさんの間には多様性が保たれていることがわかる(性的嗜好は多様であるという多様性)。
多様性のパラドックスはもっと必要以上にマイノリティを差別する場合に浮かび上がるもので、多様性が保たれている場に持ち込まれるべきではない。そして私たちの普段の生活において、多少のバイアスはあれど極端な差別主義に陥っている人はそんなに多くないように感じる。
しかし実際にはこれほどわかりやすく多様性が保たれているかどうかを判断することは難しく、多様性という言葉から片方‥マジョリティ側に見える方を多様性のパラドックスの解決に従って排除するということが起きることがある、そんなとき多様性はまるで万能の言葉のように思えてしまうのだろう。
すると多様性嫌いの正体が見えてくる。彼らはとくに特定のマイノリティを攻撃しようとする差別主義者ではないはずなので、彼らからするとすでに多様性が保たれた場に自分は存在していると考えているはずだ。
にも関わらず、(メディアなどを含み)多様性を必要以上に訴えかけられると彼らは「多様性のパラドックス」を思い出さずにはいられなくなる(その言葉を知っているかどうかではなく各人の論理的直観によって)。このため彼らはおそらく、パラドックスの解決のためには自分たちマジョリティが排除されるかマイノリティが排除されるかのどちらかだ、という誤った二分法*³を適用してしまっているためにその感情表現として多様性嫌いを標榜してしまっている気がする。
だが多様性嫌いの結果、多様性を否定してしまっては多様性排除者になってしまい、相手に今度こそ排除される隙を見せたことになってしまうだろう。
多様性=マイノリティではない
しかし、確かに彼らは誤った二分法で感情的に忌避しているだけかもしれないが、根本的に多様性をマイノリティだけが標榜するのも誤りである。
多様性の場ではマイノリティであれマジョリティであれ互いに尊重されるべき関係であってどちらかがどちらかを排除するならそれは多様性の排除につながることを意味する。すなわちマイノリティによる(多様性の名を借りた)マジョリティへの攻撃というものがもし本当にあったなら、それも多様性に対する違反につながるということを覚えておかねばならない。
まとめ
確かに社会というものはマイノリティを排除するようにできていてはならない。そしてそのために多様性を認める社会づくりが必要になる。
ただし多様性のパラドックスを招かないように多様性には、多様性を認めないという立場を排除するような制限を掛けるべきだ(差別主義者を作らない社会づくりにすべきだ)。
しかし、昨今の多様性という言葉はマイノリティの保護のために出たのは確かだが、多様性はマイノリティだけの権利ではないことは全員が知るべきである。
マジョリティ側にいる人も多様性がイコールでマイノリティのものと思っているフシがある。そのために誤った二分法に陥ってしまい、多様性を排除しようとしてしまう。逆にマイノリティにいる人やそれを訴えかけるメディアなどは自分たちが多様性を笠に着た多様性排除者になっていないかを注意すべきだろう。
脚注
*1;こちらは日本語では同じ"寛容"でも提唱したルドルフ・カルナップによる$${principle of \bold{talerance}}$$という言い方で知られる原理だ。しかし意味としてはほとんど同様のことを言っていると解釈できる.
そもそも「寛容のパラドックス」とは英語では$${paradox of \bold{talerance}}$$と書き、カルナップによる"寛容"と同じ単語であるが、内容としてはディヴィッドソンの寛容の原理$${principle of charity}$$における”寛容”$${charity}$$と変わらない(この寛容のことを善意解釈などともいう、相手の主張をできる限り真であると解釈するように務める必要があるためだ)。
*2;パラドックスとはただの矛盾ではなく、真と仮定しても偽と仮定しても矛盾が出てくるような命題のことをいう。したがってポパーの言う「寛容な社会は不寛容に不寛容であるべき」という主張はただの矛盾であってパラドックスではない。つまりその上でみたパラドックスに陥るのを避けるために寛容な社会というものの範囲を狭めたというだけである。下記事はパラドックス一般についても簡単に説明してある。
*3;誤った二分法は論理的誤謬の1つ。AかAでないかのどちらかのように迫るのが二分法であるが、たとえば「きみは妻をいまでも殴っているか、もう殴るのをやめたかのどちらですか?」のような質問は、「一度も妻を殴ったことがない」可能性もあるために誤った二分法である。
ここでの二分法は「マジョリティの排除かマイノリティの排除のどちらか」とあるが実際はA・Bの性的嗜好でみたようにマジョリティとマイノリティどちらも存在する状況はすでに多様であるのでどちらも排除する必要はない。下記事は誤った二分法などの誤謬について解説したものだ。