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【台北散歩】台北賓館(旧台湾総督官邸)で歴史に接する。。北白川宮王妃、明石元二郎。。

12月7日は台北賓館の開館日だった。初めて訪ねた。月に1回程度、休日に公開されている。豪華絢爛な造り、100年前の日本統治時代の雰囲気を思い起こさせるひと時だった。

台北賓館に入る

台北賓館は日本統治時代、台湾総督官邸として建設された。1899年(明治32年)に起工し、1901年(明治34年)に一度完成したが、シロアリの被害もあり、森山松之助(1869-1949)の設計で増改築が行われ、1913年(大正2年)に現在の形になった。
建物はフランス風バロック様式の2階建ての西洋館で、迎賓館としても使用された。皇太子時代の昭和天皇をはじめ、数々の要人が滞在した記録が残っている。1945年に中華民国に接収され、1998年には国定古跡に指定。2006年に修復を終え、現在は休日に一般公開されている。

門を入ると、すでに多くの人が集まり、外交部と書いた服を着た女性が、参観者を誘導していた。参観経路は2階から始まり、階段を上ると、木製の豪華なテーブルが目に入る。テーブルの側面には厳島神社の彫刻が施されていた。

2階へ上がる階段
木製のテーブル
厳島神社のレリーフ
つるのレリーフ

台北賓館の歴史を伝える部屋では、当時の写真や設計図、説明文が展示されている。

増改築時の設計図

1895年、台湾が日本に割譲された年、北白川宮能久親王(1847-1895)が、台湾の平定のため近衛師団長として出征したが、同年10月28日に全土平定を目前に台南にて病に倒れ、逝去した。その王妃富子(1862-1936)が、能久親王追悼の台湾神社の鎮座式に合わせて6年後の来台、この台北賓館に泊まられた時の写真がある。
その時の様子が;

10月20日、勅使として宮地厳夫掌典が御霊代とともに東京を出発、能久親王の未亡人北白川宮大妃富子及びその側近らと共に、装甲巡洋艦浅間に乗艦し、24日午前10時に基隆港に到着した。悪天候の中、一行を、児玉総督、村上義雄台北県知事、長谷川謹介台湾総督府鉄道部技師長、松岡辨台湾総督府民生部県治課長ら文武の高官が出迎えた。御霊代及び富子妃の移乗に際し、港内の防護巡洋艦須磨や客船等、大小さまざまな船舶が満艦飾で奉迎するとともに、軍楽隊は吹奏し、艦艇は礼砲を放った。また地元有志が3初の煙火(花火)を打ち上げた。一行は基隆駅臨時汽車に乗り、午後5時30分に台北駅に到着した。台北駅のプラットホームでは、後藤民政長官ら文武の高官が奉迎した。数万人が沿道で歓迎する中、御霊代と富子妃は駅舎での休憩を経て、台湾総督府官邸へ到着した。

10月27日、官幣大社「台湾神社」の鎮座式が執り行われた。午前7時、富子妃は白の礼装(洋装)に勲一等宝冠章を佩用し、儀仗兵や騎兵中隊と共に、新街道から神社に到着した。神社では軍楽隊が吹奏して富子妃を出迎え、また、徳川家達公爵、伊達宗徳侯爵、清棲家教伯爵、徳川達孝伯爵、久松定謹伯爵、前総督乃木希典男爵、徳川頼倫(のち公爵)、本多康虎子爵、恩地轍などの縁故者、名士が参列した。この他、在台の文武高官、外国領事、貴族院議員、各界の名士、各団体の代表らが正装(燕尾服又は支那正装)で参列した。こうして、600名余りが参列する中、勅使による鎮座式が執り行われた。

翌28日、児玉総督を奉幣使として大祭が執行された。儀礼に従って、児玉は祝詞を唱え、玉串を奉納した。その後、富子妃が玉串を捧げて拝礼、北白川宮成久王が代拝し、以下参列員が参拝して儀式は終了した。その後、一般市民も参拝し、前日と二日間で6万5000人が参拝した。

富子妃は次の和歌を、神社創建に際し献じた。
「 このしまの あらむかぎりは かがやかむ 名もたかさごの 神のみいつは 」
—北白川宮大妃富子(『臺灣神社誌』より)

Wikipedia「台湾神宮」より
北白川宮王妃と北白川宮能久親王
1901年 北白川宮能久王妃
1935年 朝鮮王族李垠

1935年には、時代と戦争に翻弄された李氏朝鮮の最後の皇太子李垠(1897-1970)も台北賓館に泊まられている。写真が残っている。李垠皇太子は北白川宮と縁があったようで、北白川宮邸が李垠に下賜されたようだ。そうした縁が、来台の縁になったのかもしれない。この時の李王家東京邸は、現在は赤坂プリンスクラシックハウスになっている。2000年頃、まだ赤坂プリンス旧館と呼ばれていた頃に訪ねたので、李垠という名も記憶にあり、この写真に目がひかれた。
1923年(大正12年)には後の昭和天皇、裕仁皇太子もこの公邸に泊まられた。

第7代台湾総督 明石元二郎が書いた額(複製品)

第七代台湾総督明石元二郎(1864-1919)が書いた「丈夫自有衝天 気不向如来行處行」の額がある。意味は、見込みある男は、初めから天を衝くような意気を持つ。彼はどんな立派な仏の真似もしない、とだろうか。明石元二郎は日露戦争(1904-1905)の際の諜報活動で知られているが、人生の最後は台湾で仕事をした。

同7年(1918年)7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。総督在任中は台湾電力を設立し水力発電事業を推進したほか、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため新たに海岸線を敷設したり、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いたり、今日でも台湾最大級の銀行である華南銀行を設立したりしている。また、八田與一が嘉南平原の旱魃・洪水対策のために計画した嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算を獲得することに尽力した。大正8年(1919年)8月、台湾総督府から分離して独立の軍となった台湾軍の初代司令官を兼務する。

台湾総督の次は総理大臣にと周囲からは期待されていたようだが、総督在任1年4か月の大正8年(1919年)10月、公務のため本土へ渡航する洋上で病を患て郷里の福岡で死去した。満55歳だった。「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言によって、遺骸は福岡から台湾に移され、台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)に埋葬された。その後、1999年に現地有志により台北県三芝郷(現在の新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されている。墓前にあった鳥居は林森公園の整備中二二八和平公園内に建てられていたが、2010年11月に再び元の地に戻された。また、生誕地付近の勝立寺には遺髪と爪を収めた墓がある。

Wikipedia「明石元二郎」より

その後、当時、多くの賓客を招いて、懇談があり、宿泊し、政策が談論されたであろう多くの部屋を観てまわった。どれも精緻豪華で調度品も細部まで心配りされた部屋で、来館した人々に強く印象付けたことだろう。

家具についていたレリーフ
桜の紋章

日本は日清戦争の結果、下関条約で、清朝から台湾を割譲され、統治下においた。その功罪は一括りにはできないが、少なくとも当時の日本にとり、初めての海外植民地で、清朝が”化外の地”と呼んだ台湾の、その統治には、当時の欧米列強に負けない立派な経営をしようとういう並々ならぬ強い意志があったと思われる(統治される側には選択肢はなかったが)。台湾総督官邸の豪華さには、そうした意志が反映されていることを感じる。

建物の後ろ側の出口を出ると日本庭園がある。数寄屋造りの日本家屋もある。当時の総督は、洋館に慣れなく、日々の生活はこの日本家屋で過ごしていたそうだ。

日本庭園
数寄屋造りの日本家屋

いつの間にか数時間以上をここで過ごしていた。
表に戻り、正面の噴水前で写真を撮り、台北賓館を後にした。百年前にしばし漂うような時空間だった。


参考)
【台北好日】YouBikeで走る朝(1)台北賓館、自由広場、愛國西路


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