【インド行4】アーグラ城塞とムガル帝国
インドといえば、ヒンドゥー教が思い浮かぶ。世界を維持するヴィシュヌ神、創造と破壊のシヴァ神、実存するための縁起を与えるブラフマー神や、象の頭を持つガネーシャなど多様でカラフルなイメージを持つ。
しかし、日本の織田信長・豊臣秀吉そして徳川の江戸時代とおよそ重なる約300年、インドの大部を統治していたムガル帝国はイスラム系の王朝だった。アーグラ城塞は、そのムガル帝国の時代、第3代アクバル大帝により建設された城塞だ。1565年着工、1573年に完成し、アクバル大帝以後、第4代ジャハーンギール、第5代シャー・ジャハーンの居城として使われた。
ムガル帝国とはどの様な帝国だったのか、成立、成長、衰退の要因を下記にまとめてみた。
① ムガル帝国の成立の背景
ムガル帝国は、1526年のパーニーパットの戦いで、バーブルがデリー・スルターン朝(ロディー朝)を滅ぼしたことにより成立した。バーブルはティムール帝国の子孫であり、中央アジアのフェルガナを拠点としていたが、シャイバーニー朝(ウズベク族)に敗北し、インドへの進出を決意した。
当時のインドではロディー朝が弱体化し、地方勢力(ヒンドゥー教徒のラージプート族やシク教徒)が独立を強め、統一的な支配が困難な状況だった。さらに、ロディー朝の貴族たちはスルターンのイブラーヒーム・ロディーと対立し、バーブルを支援した。
バーブルはオスマン帝国の影響を受けた火器戦術と騎兵戦を組み合わせた軍事戦略を採用し、ロディー朝の大軍を撃破。これにより、デリーとアグラを支配し、ムガル帝国が成立した。
② ムガル帝国の成長の理由
ムガル帝国の成長は、強力な軍事力、優れた統治、経済発展、文化の繁栄が相互に作用した結果である。
アクバル帝(在位:1556~1605年)は異宗教融和政策を採用し、ヒンドゥー教徒の有力者(ラージプート)と同盟を結び、ジズヤ(異教徒税)を廃止。また、中央集権的な官僚制度(マンサブダール制)を整備し、効率的な統治を実現した。
経済面では、地租制度(ザミンダーリー制)により安定した税収を確保し、農業生産が向上。また、綿織物や香辛料の国際交易が活発化し、商業都市(デリー、アグラ、ラホール)が繁栄した。
文化面では、ペルシア文化とインド文化が融合し、ムガル建築(タージ・マハル、レッドフォート)、ムガル絵画(ミニアチュール)が発展。これらの要素が重なり、ムガル帝国は16世紀~17世紀に最盛期を迎えた。
③ ムガル帝国の衰退と消滅の理由
ムガル帝国の衰退は、アウラングゼーブ帝(在位:1658~1707年)の強硬な宗教政策、長期戦争による財政負担、地方勢力の独立、外国勢力の侵入が主な要因である。
アウラングゼーブ帝はヒンドゥー教徒を弾圧し、ジズヤを復活させ、ラージプートやマラーター族との対立を深めた。また、デカン遠征(南インド遠征)を25年間続け、軍事費が増大し、財政が悪化した。
18世紀には、マラーター、シク教徒、アフガン勢力が台頭し、地方のムガル総督(スバーダール)も独立。1739年にはペルシャのナーディル・シャーがデリーを侵略し、帝国の権威が失墜した。
さらに、イギリス東インド会社が勢力を拡大し、1757年のプラッシーの戦い、1764年のブクサールの戦いでムガル帝国の支配権を掌握。最終的に1857年のインド大反乱(セポイの乱)でバハードゥル・シャー2世が廃位され、ムガル帝国は正式に滅亡した。
アーグラ城に話を戻そう。
同行していたMの体調が今一つで、午後になり気温も上がってきたので、見送ることも考えたが、Mがどうしても見たいというので、城塞の前で車を降りて、観光客の行列に並んだ。外国人用の列があるのか、周りの人が先に行けというので行くと、殆ど待たずに入れたのは幸運だった。
城塞は赤砂岩で築かれていた。白色は大理石。
ムガル帝国最盛期の王族達が暮らした城塞は今は昔。
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