言い淀む対象から差し向けられるもの−髭男『I Love...』の感想
去年の年末か今年の初めだったか、すでに記憶が曖昧なのだが、TBS系のテレビドラマ『恋はつづくよどこまでも』が再放送されていた。最初の放送当時から度々その話題を見聞きしたし、SNSでドラマの感想がつぶやかれていたのを目にしていたので、このドラマ自体は知っていた。なので、せっかく再放送されていることだし、観てみようと思ったのだが、申し訳ないことにわたしはそこまで作品にのめり込めなかった(そもそもちゃんと見ようとしていなかったのもある。年末年始の惰性もあって)。
代わりに、妙に印象に残ったのがこのドラマの主題歌だ。4人組バンドである「Official 髭男dism(以下、髭男)」が歌う『I love...』は、キャッチーなホーンから始まるイントロに、ヴォーカル藤原聡の伸びやかな高音で強調される「イレギュラー」というサビの1フレーズなど、何となしに惰性でテレビを観ていた私の耳に強烈な印象を残した。すぐにApple Musicで曲を探して聴いてみる。もう一度聴き直す。いま一度…。こんな具合で、すっかりこの曲にハマってしまった。
わたしが『I love...』という曲を興味深いと思うのは、まず、そのタイトルである。歌詞は全体的に愛を歌っており、愛を祝いでいる雰囲気で満ちているのだが、曲のタイトルにおいては(あるいは、歌詞にも認められる部分はあるが)、その愛する対象・目的となる語が省略されている。いや、『I love...』の示す「...」という部分をみるに、言い淀んでいる、言えないでいるような印象を受けるのだ。なぜ、それを言わないのか。いまひとつには、『Pretender』をはじめとして『I love...』以前に多くのヒット曲を世に出し、誰もが(その独特なネーミングも相まって)名前を耳にしたことがあるほどメジャーシーンで活躍している髭男がその曲中で高らかに歌い上げる「イレギュラー」という言葉の持つ強いインパクトだ。「メジャー」なバンドが「王道」の恋愛ドラマとタイアップして歌われる曲における「イレギュラー」性を考えてみるのも面白いかもしれないが、ここでは、単なる感想として前者の『I love...』というタイトルと曲の関連について、思ったことをつらつらと書いていこうと思う。
SVOという英語の文型であったり、日本語の主述関係であったり、これらの例においてはどうも行為に先立って存在する確固たる主体(主語)が前提となっている。『I love...』という曲のタイトルにおいては、愛するという行為に先立つ「 I(=わたし)」が行為に先立って存在していると言える。「I」とひとことで言ってみても、それは個々の「I」によって多様である。例えば友人との会話であったり、テレビ番組などで恋愛が話題にのぼる際にしばしば聞かれることに、「あなたはどんな人がタイプなの?」という質問があったりする。この質問に答える側は、頭のなかで自らの経験や自分はこういう人間だろうというイメージから想起して、何となくこういう人を好きになるだろうと結論づけ、返答することと思う。このようにして、「わたし」は愛に先立って、自分はこのような人間であるという意味を帯び、自己の築き上げられた歴史から愛の対象を横暴にも決めてかかるわけである。
『I love...』の歌詞を見てみると、この曲が描く世界は、歌詞の語り手である「僕」と「僕」が見ている「君」の二者からなっていることがわかる。タイトルで既に示されていることだが、歌詞のなかにおいても、「僕」は「愛する(=Love)」の対象を語ることが出来ていない。
I Love なんて 言いかけてはやめて
I Love I Love 何度も
曲の世界観からすると、「僕」が言いかけてやめた「I Love」という言葉を伝えたい相手は「君」であることに間違いないのだが、「僕」はそれを何度も言い淀んでしまうことが示されている。「I Love」なんてフレーズがすでに「僕」の頭のなかで構成されているわけなので、「僕」自身はおそらく目の前の「君」を愛しているかもしれないという自覚はあるはずなのだが、どうしてその先の目的語が口に出せないのだろうか。
僕が見つめる景色のその中に 君が入ってから 変わり果てた世界は
いつも卒なくこなした日々の真ん中 不思議な引力に逆らえず崩れてく
高まる愛の中 変わる心情の中 燦然と輝く姿は
まるで水槽の中に飛び込んで溶けた絵の具みたいな イレギュラー
楽曲の出だしの部分から、1番目のサビにかけて目につくのは、「僕」の変化のイメージだ。何となしに過ごしてきた日常が「変わり果て」、「崩れてく」というフレーズからは、「僕」の見る景色や生活が「君」と出会ったことで変わる、変容していったことが伺える。またそれは、愛の高まりにつれて、自分自身の内側で強く感じられるものとなっていくことがサビのフレーズから明らかになる。この変化を「僕」にもたらしたのは、「僕」の景色に現れた「君」である。「君」が登場したことにより、「僕」は愛を感じ始めるのだが、このことは、先にも触れたように僕の日常を「変わり果て」たものにし、崩壊させるものでもあった。「君」と出会ったことによって「僕」が気付かされるのは、「I Love」と宣告しようとする、愛に先立って言葉として放たれる絶対的な「I(=僕)」が築き上げた自己の一貫性が揺さぶりを受けているということではないか。ある人物は、「ひとの首尾一貫性とか連続性というのは、社会的に設定され維持されている理解可能性の規範なのである」と述べているが、この「僕」もまた、「僕」の経験した歴史的社会的状況から、「こういう人を愛したい」というようなある種の規範(先に述べた好きな人の「タイプ」に近いかもしれない)を作り上げて、それを自己の一貫性の中に組み込んでしまっているのではないか。そんなところに現れた「君」によって、「僕」のなかの愛が起動することになるのだが、「I Love」の続きを言ってしまうこと、つまり、「君」を「僕」の愛の対象と宣言してしまうことは、逆に自分の内的一貫性に疑義をつきつけ、自己のアイデンティティが揺らぐ、もっといえば転覆させる脅威となる可能性を孕んでいる。事実、「僕」から見る「君」の姿は、「水槽の中に飛び込んで溶けた絵の具みたいな イレギュラー」なものとして映っている(余談だが、この『I Love...』という楽曲のジャケットには、まさにこの水に溶けた絵の具の写真が使われている)。「君」に愛を告げてしまうことで、「僕」の信じてきた愛というものが一変し、ひいては自分という存在が瓦解するのではないか、ここまで大げさでなくとも、イレギュラーな「君」からくるある種の不安から、「僕」が愛を言い淀んでしまうのではないかと、私はここで思うのだ。
では、「僕」は自分自身を守るために「君」に愛を伝えること無く終わるのだろうか。私がこの曲を聴いたときに、これは何を意味するのだろうと疑問に思った歌詞がある。それは、「喜びも悲しみも句読点のない想いも 完全に分かち合うより 曖昧に悩みながらも 認め合えたなら」という歌詞の「句読点のない想い」の部分だ。「句読点のない想い」とはいったい何なのだろう。句読点とは、「、」や「。」といった文の切れ目や文中の意味の切れ目などに添える符号のことである。先ほど、「僕」の一貫性が「君」の登場によって何とかかんとか…と書いたが、例えば、翻って自分が自分をこういう人間だと説明する場合にどう伝えるだろうかと考えてみる(自己PR的な)。「わたしは、◯◯を経験して◯◯を身に着けています。わたしの長所は◯◯で、短所は◯◯です。得意なことは、◯◯です。」などと咄嗟に考えてみたが、おおよそこのような具合ではないだろうか。こうした文章には句読点が必要です。いや、句読点について注意を向けたあとに例示した文章なんだから、わざとそのような例示をしたのだろうと言われてしまいかねない。まぁしかし、自分がどんな人間であるかを頭で思い浮かべて言語化する際には、こうした「私は、◯◯という人間だ。」のような論理的に意味の通りやすい文章になるのではないか。けれども、私のこれまでの経験や培ってきた信条などは、果たしてこのように綺麗に一文一文論理的に、端的にまとめられるものなのだろうか。実際に頭のなかで巡っているのは、ある一つの特性に自分のこれまでの経験、信条を収斂させようとして、でもそこには絶えずそれに逆らうような経験が思い起こされたり、それとはまったく別のことが想起されたり、様々な干渉が加わり、究極的には、「わたしってこういう人間で合っているのだろうか」と疑問に思ってしまうような混沌とした思考なのではないか。このような決まりきった型では表出され得ない混沌とした、あるいは、肯定と否定、矛盾が入り混じった干渉可能性に開かれた思いこそが、この「句読点のない想い」なのだと考えることは出来ないか。こうなると「句読点のない想い」は、「君」の登場によって、自己の価値観に揺さぶりをかけられ、愛が駆動しつつもその愛を表明できないでいる「僕」の心情という点で、曲のタイトルである『I Love...』に還元できるかもしれない(この曲名には句読点は存在していない)。
I Love I Love 不恰好な結び目
I Love I Love 手探りで見つけて
I Love Your Love 解いて 絡まって
僕は繰り返してる 何度も
ある意味で論理的一貫性のない、混沌としたこの「句読点のない想い」は、曲の中盤で歌われている上の歌詞のように不格好なものなのだろう。実際、例えば人前で自己をアピールする際に、悩みだしたり答えられなかったりすることは、しばしばみっともないとされている。自己の意識が実のところ混沌とし、外部からの刺激に開かれた未完成のものであるからこそ、そこに「君」という存在が絡まる契機が生まれる。そしてここで、「僕」は「Your Love(=あなたの愛)」に気づき、それを口にすることができるようになる。そして、おそらく「僕」と同様に混沌とした「君」の自己意識とが、混沌としているがゆえに即座に収まりのいい場所を見つけることが出来ずに「解いて」は「絡まって」しまうその過程のなかで愛が駆動する。それは、「僕」の認識する日常を切り崩しながら、そして「君」の認識する日常を切り崩しながらも何度も結び目を探ることによって、愛が徐々に強く意識されるようにはたらく。
「君」が僕の景色のなかに現れ、君の持つ何らかの作用が「僕」におよび、「僕」はそれを愛の名付けをしようとする。だが、愛に先立って前提とされている「僕」の自己意識(とされるもの)は、まさにイレギュラーな君によって揺さぶりを受け、「僕」は愛を言い淀んでしまう。だが、「僕」だけが愛を名付ける審級の位置にいるのではない。そうなってしまうと、その愛は非対称なものとなる。そうではなくて、「君」によって「僕」にもたらされた揺さぶりと、同様に「君」が受けた揺さぶりを互いに自己に差し向け、まさに歌詞が伝えているように「曖昧に悩みながらも 認め合」うことで、はじめて愛を表明することができるのではないか。そして、愛の始源にイレギュラーな君との邂逅があるのなら、あらゆる愛の形象はこれによって肯定されはしないだろうか。実際、先に述べたようにこの曲はドラマの主題歌として書き下ろされたのだが、それに際し、髭男はコメントで「恋人同士はもちろんのこと、友人、家族、ペット、同僚、性別など対象を問わない「LOVE」についての歌です」と述べている。
『I Love...』は言い淀む「...」にあらゆる代入可能性があり、それによって様々な愛の形が言祝がれているのではない。似たようなことかもしれないが、あらためてこの歌詞のなかで登場するのは、「僕」と「僕」が見る「君」の二者であり、どのような「君」が各人に現れるかで変わる、つまり、「君」という存在にその代入可能性が開かれているのだと言える。「僕」と「君」との可能性は、この曲のMVのなかで様々な形で描かれている。是非、そちらも観ていただけると、より一層を『I Love...』という楽曲を楽しんでいただけるのではないかと思う。
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