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言葉との交際史
言葉を探して、触って、噛み砕いて、洗って、煮込んで、溜めて、やっとさりげなく表出することが好きだし、性に合っているなと思う。
詩人でも歌人でもないのでセンスは光らないが、そういう行為にひとりで充実感を覚えている。
見たもの感じたものを言葉に変換してみると時々、言葉にする前よりもそれが特別に大切になってくる、みたいな体験をはじめてしたのが小2くらいの時だった。
雨上がりの道のにおいが好きだった。土と苔と水がぐるっと混ざった、迫ってくるような自然の香り。雨が上がって晴れたとき、小2の私は数センチ開いた実家の窓の隙間から湿った小道を眺めて、その空気を肺満杯に吸い込んでいた。
そして、その数センチ幅から見えた景色と感情を言葉にして、詩もどきにして、ぽつぽつと呟いた。
塗り絵を見せても「ここがはみ出ている」など小さな文句をつけてくる母がこのときだけは「それどこで習ったの?え、自分で考えたの、すごいねえ。素敵。」と褒めてくれたので、強烈な原体験として覚えている。
なにを呟いたのかは忘れたけれど、あのときの空と水たまりの眩しさは目の奥にしみているし、すうっとした空気の冷たさはまだ鼻腔をくすぐる。
世界を言葉にする楽しさにハマった小2の私は、続いて「お〜いお茶」のラベルを見て「ここに載りたい」と思った。
「俳句」というものを作ればいいらしいということで、夏休みの宿題として1日1句作ることにした。そんな宿題はなかったが、自由課題ということにしていつもお風呂でお母さんと考えた。
「スイカの一口目、しゃくしゃく感を伝えるには」「花火のドーンって響きの重さを言葉にするなら」「蚊はどんな気持ちなんだろうか」、いろいろ考えて、たくさんのぼせた。
大きな感動、たっぷりの嬉しさ、うだるような暑さを17音に収めるのは難しくて、楽しくて、「お〜いお茶」のことは忘れて俳句作りに勤しんでいた。
休み明けに突然夏の30句を提出してきた小2に当時の担任の先生が感銘してくださって、何かに応募してくれた気がする。その後のことは全く覚えていないので、特に入選とかはしなかったのだと思う。
作文も好きだった。やらなくていい推敲をたくさんした。小学校の卒業文集では覚えたての倒置法を乱用しておりなんとも恥ずかしい仕上がりとなり二度と読みたく無いが、書くことって楽しいな〜とはずっと思っていた。美術の授業で絵を描いた時も、絵より「どんな題名をつけるか」に本気を出していた。
言葉との出会いも心躍る。高校生活のうち最悪のイベントである模試でも、現代文の小説に感動して涙ぐんだりしていた。偏差値は上がらなかった。
20歳になり「校閲」というものに出会った。できたての文脈を追い、言葉のひとつひとつに立ち止まり、洗って組み替えて置き換えていく作業に、静かに熱狂していた。
「わかりにくい」を「わかりやすい」にしたり、「つまらない」を「おもしろい」にしたりすることの尊さに虜になって、仕事にした。
言葉と向き合って選びとってつなげていくことが、生きているうちにだんだんと精神安定剤のようになっている。
最近国語辞典を買った。膝の上に置きながら本を読み、知らない言葉に出会うたびに辞書に尋ねている。まだまだ知らない言葉ばかりで、嬉しい。