恵まれた私にも「つらい」と言える権利はあるのか
こんばんは。恵です。
「恵まれているけど、しんどいの」
今回は、このクリエイター名にどんな思いを込めたのか、
すこしお話ししてみたいと思います。
テレビやSNS、あるいは学校教育も、
”世の中には大変な思いをしている人がたくさんいる”ということを
あらゆる角度から、私たちに教えてくれます。
・病気で苦しんでいる人
・明日食べていくお金すらままならない人
・犯罪、災害、戦争で大事な人・大切なものをを失った人
・○○格差でいうところの「劣」の側にいるとされている人、、、
大変ありがたいことに、私はどれにもあてはまりません。
それどころか、
経済的に裕福な環境で育ち、親はいつも尽くしてくれ、
勉強もスポーツも、大体のことが得意で、
周りが羨むような大学を卒業し、
安定した収入をもらいながら働き、
体に不自由を感じることもなく生活しています。
おいおい自慢かよ、と思われた方、本当にすみません。
だからこそ、わたしは長い間ずっとこう考えていました。
世の中にはもっと大変な人がいるんだから、
私のつらさなんて、きっと大したことないんだ
主に欧米で浸透している道徳観として
「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。
財産・権力・地位を持つ者は、
それ相応の社会的責任や義務を負うべきである、という意味です。
しっかりしなきゃ、と勝手に義務感を背負ってしまった私は、
”何かをひたすらに頑張らなければならない”
”いい人でなければならない”
”社会の役に立たなければならない”
という呪縛にかかり、
自然と自分の気持ちにふたをするようになっていました。
結果としてそれが、
「無理しすぎる」「完璧を目指す」「悪いところにばかり注目してしまう」「自分への評価が低い」「人の顔色をうかがう」という形で、
心のバランスを大きく崩していく原因になるとは、
当時は知る由もありません。
恵まれていたとしても、大したことないような気がしても、
「つらい」気持ちをないがしろにする必要はないよ。
当時の自分に会えるなら、そう声をかけたいと思っています。
さて、なぜ私が「つらい」と思っていたのか。
少し片鱗が見えてきたようにも思いますが、
この先も少しずつ深堀していけたらと思っています。
それでは、また。