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【感想】光る君へ〜清少納言と中宮定子の尊すぎる関係性について〜

NHK大河ドラマ「光る君へ」第21回の放送を観た。文章を書くのが好きな人間として、今回大河ドラマが採用した『枕草子』という作品が書かれた背景についての解釈が気に入ったこと、そして中宮定子と清少納言の魅力に惹かれたので、感想を書き留めておく。(泣ける、本当に泣ける。。。)

ちなみに私は古典文学の知識はほぼないが、『枕草子』は「日本最古のエッセイ」ということで何年か前に読んでいた。
大河ドラマで知識を幾許か補って読み返すことで、『枕草子』に対して全くもって新しい視点を持つことができた。自分がアップデートされたようでとても嬉しい。

感想を書くために一旦冷静になろうと思ってあらすじを書いてみたけれど、早く感想が書きたくてうずうずしているので、筆を進めようと思う。

私がここで書きたいのは、人の悲しみを癒すために綴られる物語がやはり世界一美しいということだ。最初に書いておく、脱線して忘れそうなので。


中関白家(中宮定子一家)の没落


感想の前に、大河ドラマを見ていない人のために時代背景を軽く説明したい。浅学をお許しください。

「光る君へ」は源氏物語の作者である紫式部が主役の物語ではあるけれど、今回の放送は藤原道隆の娘で一条天皇に入内した中宮定子と彼女に仕えた清少納言について濃密に描かれた45分だった。

NHKプラスから視聴可能です。(👇)

藤原伊周と隆家兄弟の凡ミスから始まった中関白家の没落。
兄弟が罪に問われた中宮定子は内裏へ行くことも許されず、実家の二条邸に戻り、出家を決意する—。

その後の物語が今回の話だった。

中宮定子を取り巻いた超理不尽な環境

まず前提として、中宮定子は聡明で美しく華やかで、定子様オタク筆頭の清少納言が書くところによると目も合わせられないほど本当に麗しく、その夫で天皇である一条天皇も定子と同様、教養があって美しく、非の打ち所のない平安最強カップルであった。その定子が、自分ではコントロールできないおバカ兄弟(伊周&隆家コンビ)によって宮廷での立場を追われ、遂には出家を決意してしまう。事実は小説よりも奇なりというけれど、この一連の流れは「長徳の変」と呼ばれ、藤原道隆亡き後一年にして急速に没落した中関白一家を表している。事実を淡々と追うだけでも定子の辛い立場が目に見えてとても辛い。

ちなみに、ドラマの中で高畑充希さんが演じる中宮定子は、涼やかで溜め息が出るほど高貴なので余計悲しさが増すし、三浦翔平さんが演じる伊周は傲慢で謙虚さも人望もない。これらのキャラクターの対比が、中宮定子の理不尽さを強調していた。個人的に一番許せなかったのは、伊周の「皇子を産め」発言!令和なら完全アウトなこの発言、世継ぎが大事だったこの時代ではセンシティブじゃなかったのかもしれない。でも、それでも、自分ではコントロールできないことについて、実の兄に詰られるのは耐え難い屈辱だったのではないかと思ってしまった。(道隆パパも死ぬ直前に「皇子を産め」と定子に詰め寄っており、これも同じく酷かった、そして怖かった。)

第19回、20回・・・と回を重ねるにつれて、定子と取り巻く環境は悪化して、そのピークに達したのが今回の第21回だったんじゃないかなと思う。
(涙でぼやける映像を必死にひたすら追った)

※劇中では、悪の極み!伊周!と散々な描かれ方だったが、清少納言によると定子と伊周は「いとをかし」なやりとりもしていたりもするらしい。また、定子サロンを盛り上げた一人でもありドラマでは描かれなかった顔もある。本当はここまで悪い人ではないのかもしれないとも思います。
※太宰府への流刑についても、史実では、道長の策略だった説もあります。

物語を綴る意義

「そんな、心身ともに疲弊していた定子様にもう一度生きてもらうために献上されたのが『枕草子』です」という流れが「光る君へ」では採用されていた。この流れは大河ドラマ用の演出ではなく、『枕草子』に関する実際の研究結果を踏まえたものである。

※たられば氏のXの投稿より枕草子研究者亀井博士の考察を引用させていただきます。

「作者清少納言は、中関白家の没落、皇后定子の失意、この大きな事実を眼前にして、どのように感じたか。
 彼女は親愛し、敬慕する唯一人の高貴な同性のために、そのあまりにもいたいたしい運命に慟哭もし、号泣もしたことであろう。しかも彼女は、いかなるものも淫し、犯すことの出来ないものを、この一人の不遇なやんごとない愁人の生き方の中に見た。
 それは、かつてこの人の栄華を形づくる要素をなしていたところの如何なる富でもなく、また権力でもなかった。
 それは実に人間としての定子その人の高貴性であり、さらに人間そのものの純潔さと美しさであった。かやうな高貴性は、中関白家の栄華をこえ、衰滅をこえて、それ等にかかわりなく高く、永遠に、玲瓏として耀くものであった。
 この高貴性こそは、皇后定子を通して発見した人間の高貴性であった。
  彼女は現実の旋風と暗黒との中において、この混濁に染まない、さわやかな一条の光を見た。この光明こそは、清少納言の天才をもってしても、あるいは、栄華のさ中においては見出し得ぬものであったかも知れない。
 枕草子は崩びゆく権威への挽歌である。その作者は身をもって悲しみと苦しみを味わったにもかかわらず、そこにはいささかの暗さも、卑屈も、自嘲も、愚痴も示していない。
 こういう環境に生れる文学は、どうかすると感傷や頽廃や情痴、さては虚無の思想や好尚に陥りやすいが、そういうものは微塵もそこに見られない
  それは、きわめて健康な無韻の詩である。建設の文学である。かつてありしものへの讃美、後方を顧みる文学ではあるが、しかしそれはただ中関白家に限られるのではなく、むしろあらゆる人間への、より本質的な人間らしきものへの郷愁であった。
 そうであるかぎり、それはまた直ちに、前方を望む人間創造の文学であったと云えると思う。」

『国文学:解釈と鑑賞』(ぎょうせい刊、1951年)池田亀鑑より

「光る君へ」では、「物語は人の悲しみを癒すためにある」というスタンスが取られていて、その考え方が清少納言にも紫式部の描かれ方にも宿っている。

何回目か前の劇中でも、まひろ(紫式部)が友人と石山寺に行くシーンがあった。そこで「蜻蛉日記」※の作者である藤原道綱の母に出会い、蜻蛉日記を書いた理由について語られるシーンがあった。道綱母は、「私は日記を書くことで、己の悲しみを救いました。あの方との日々を日記に書き記し、公にすることで、妾の痛みを癒やしたのでございます」という言葉をまひろに伝え、影響を与えていた。

貴子にとっての道隆、道綱母にとっての兼家、清少納言にとっての中宮定子、そしてまひろにとっての道長、それぞれがそれぞれの「光る君」のために、歌を詠み、物語を綴っていくのだ。

※『蜻蛉日記』は、藤原道長の父・藤原兼家の妾であった藤原道綱母(名称不明)が書いた日記である。当時、紫式部もこの作品を読んだとされており、『源氏物語』にも影響を与えたとされている。

感想

清少納言は、家族とも離れ離れになり、慕っていた一条天皇とも会えなくなってしまい悲しみに暮れていた定子を、『枕草子』を描くことで癒そうとした。

四季が美しいこと、この世にたくさんの自然があること、素晴らしい寺社仏閣があること、どんなものが綺麗で、人はどんな様子で生きていて、あなたはどんなに素晴らしい人なのか、どんな思い出があるのか、帝とどんな話をしていたのか、私はどんなにあなたを敬愛していたか。

そうした事柄が、一人の女性の知識と教養と経験によって紙に記され、1200年経った今でも中宮定子の輝かしい時代を後世に伝え、彼女の尊厳を守っている。

武器でも財力でもなく、美しい言葉によって守りたい人を守った。それは清少納言なりの戦い方であり、平安時代において多くの人にも新しい価値観を呼び覚ました人物だったのではないかと思う。

たとえ政治的には敗者であっても、定子と清少納言が共に過ごした日々が美しかったことは揺るぎない事実である。彼女たちの中では。
権力に美しさが宿るとされていた時代において、何かを慈しみ美を見出す心は権力のないところにも存在することが可能だと伝えられたように思う。

現代では、美しさと権力はそれぞれ独立しても成り立つものである。しかし、平安時代は「美しさとは権力のあるところに存在するもの」という社会的通念が存在していた。そんな時代の中で描かれた、権力とは関係のないところで咲く美しさについて綴った作品は、美についての感性を広げたものとして今では捉えられている。こんなこと、きっと清少納言は予想してなかったんじゃないかな。

最初は敬愛するたった一人のために書かれた文章だった。それがやがて多くの人に読まれ、時を超えてもなお、その鋭い観察眼やユーモアで読者に気づきを与えている。

こうして読み継がれてきた古典文学に今アクセスできることがとても奇跡だと思うと共に、清少納言にとっての光る君であった定子を救った作品が万人に光を灯していることを彼女に伝えられたらどんなに良いだろうと思うなどした。

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