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「帝国日本」の支配の下に躍動した朝鮮人選手たち~金誠「孫基禎(ソン・ギジョン):帝国日本の朝鮮人メダリスト」(中公新書)


2020年7月刊

著者は1974年生まれのスポーツ史・朝鮮近代史を専門とする研究者で現在は札幌大学地域共創学群教授。孫基禎というと朝鮮近現代史を少しでも学んだ者なら必ず知っているであろう著名人だが、この著作を読んで私も初めて知ったことも多く非常にいい学びになった。
1912年~2年前1910年の日本による韓国併合後に朝鮮北部・中国との国境沿いの都市:新義州に生まれた孫基禎は、貧しい家庭環境のため運動靴・スケート靴なども買ってもらえず厳しい少年時代を送るが、さして道具のいらない「走る事」にのめり込んでいく。やがて地域の競技会や「朝鮮神宮大会」などでの中距離走で名を上げ、32年に京城の陸上競技の名門:養正高等普通学校に入学~ロスアンゼルス五輪の代表選考会では選ばれなかったが、孫以外の3名の朝鮮選手がロス五輪日本代表として出場している。
1910年からの植民地支配では、1919年の「3.1独立運動」以来、武断統治から文化統治へと方針転換し「内鮮融和」を図る朝鮮総督府にとって、スポーツは内地(日本)と外地(朝鮮)の融和のための格好のプロパガンダ材料でもあった。
そしてベルリン五輪代表選考会などでの孫ら朝鮮選手の活躍は、植民地朝鮮の知識人たちに「民族の優生学的優秀性」を誇らしめることにもなる。ナチスドイツが提唱し始めた優生学なるものが「支配される側」の民族主義者によって賞揚されたのもまた皮肉な一面である。そして1936年ベルリン五輪マラソンでの孫基禎の当時の五輪新記録での優勝。この時にヒトラーからも直接祝いの言葉をかけられている。実はこの時3位にも朝鮮人選手:南昇龍が入っているが、この二人の栄誉は世界ではあくまで「帝国日本の勝利」として捉えられた。当時の日本メディアと朝鮮半島のメディアでも「日本の勝利」か「朝鮮選手の勝利」か記事の書き方がかなり違っている。そしてその後の朝鮮の新聞「東亜日報」による表彰台での孫ら朝鮮選手の胸の「日章旗抹消写真」事件~これは現場スポーツ記者らが主導したようだが、これによって東亜日報は9カ月の停刊処分を受ける。孫基禎の勝利はあくまで「帝国日本の勝利」であり内鮮融和に資すべきもので民族対立に利用されてはならない~との理由で。そしてこの後、孫基禎も特高警察などによって要注意人物として監視対象とされていく。
その後、孫基禎は有力な民族主義者:金性洙の援助などもあり明治大学に入学するが、以降はマラソン・陸上競技とは距離を置くようになり、卒業後は京城に戻り朝鮮貯蓄銀行に就職する。しかし既に競技からは離れていた彼も「帝国日本の金メダリスト」として日中戦争が泥沼化する中での様々な式典への参加を求められたり、やがて43年には朝鮮・台湾でも「学徒志願兵募集」が始まり、孫も著名人の一人としてその「勧誘活動」に駆り出されるようになる。
1945年8月15日の解放後には、47年ボストンマラソン参加や将来の若手選手発掘・育成など韓国のスポーツ界発展にも尽力し、88年ソウルオリンピックでは聖火ランナーとしても「最終ランナー」に聖火をバトンする役割を担うが、2002年11月~90歳でその生涯を閉じている。
こうして孫基禎の生涯を辿っていくと、そこには「被支配民族」としての朝鮮人の矜持を持ちながらもあくまで表面的には「帝国日本」を代表する選手として活躍してきたことの矛盾・苦悩そのものが植民地支配の欺瞞・偽善と重なって見えてくる。
私には特に、彼が晩年に「映画『ホタル』の中で特攻で死んでいった金山少尉を生んだのは私の責任である」と、学徒志願兵勧誘に応じたことを深く後悔していた~というエピソードが印象的だった。この映画「ホタル」は降旗康男監督・高倉健主演という名コンビによる2001年の名作だが、ここで朝鮮人青年の特攻志願兵を演じていたのは小澤征爾の息子:小澤征悦である。たしか彼のセリフに「俺は日本人ではなく、あくまで朝鮮人としての誇りを持って戦い死んでいく。」という趣旨のものがあったが、ああ、孫基禎さんもあの映画を観たのだな~というのは誠に感慨深いものがあった。
いずれにしろ、植民地支配を「する側とされる側」の様々な人物の立ち位置・価値観・姿勢の複雑な絡み合いが凝縮されたようなこの評伝は、実に読み応えがあった。おすすめ!である。

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