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84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その十一

昭和47年にマイホームが完成しました。

引っ越し前に、義姉が結婚し、新居では舅と姑と私たちの7人で新たな生活がスタートしました。

夫と私は33歳、長女は小学5年生、次女は3年生、長男は1歳になりました。

長女はあと一年で卒業なので、少し遠くなりましたがそのまま同じ小学校に通いました。次女もしばらくは長女と一緒に通っていましたが、泣き虫の長男が幼稚園に入園する時に、まるで捨てられるかのような幼稚園の門での大泣きが止まらないので、5年生のとき、弟と一緒に通うため、幼稚園の目の前にある小学校に転校しました。

新しい家では、お風呂もボタン一つで沸くし、キッチンも新しいし、2階があって、夫の書斎と娘たちの部屋もできたし、私の母がお琴と三味線のお教室を開く和室もできて、みんな大喜びでした。

そのころは珠算塾の生徒数がピークの時で、14時から19時まで1時間ごとに生徒が入れ替わるという状況で、夫が会社から帰るまでは私が教えて、終わってから夕飯だったので、仕事が終わる頃にタイマーをセットするとご飯が炊けていたり、薪で焚くのと違って子供達でもスイッチ一つでお風呂の用意ができるのは、本当にありがたかったです。

だけど、ただ一つだけ困ったことがありました。75歳の舅の認知症がひどくなったのです。新しい家で夜中にトイレを間違えたり、早朝まだ暗いうちにふらふらと外に出かけてしまったり、大変でした。古い家では薪割りが日課で、お風呂を焚いたり、ごみを燃やしたり、消防団の副団長もしていたので役割がたくさんあったのですが、新しい家では自分の仕事がなくなって、電気やガスで便利になった生活についていけなかったのかもしれません。時々散歩に出かけて帰ってくると、間違えて隣の家に入ってしまい、ズボンを脱いで隣の家のこたつでくつろいでいたことが何度かありました。当時はご近所の皆さんの家もカギは開いていたし、婦人会などもあって、良いお付き合いができていたので、ずいぶん救われましたが、仕事をしながら面倒を見るのには限界がありました。ある朝、舅はまだみんなが寝静まっている時間に、しらないうちに外に出てしまい、国道で車にはねられ、救急車で病院に運ばれました。警察に呼ばれて夫と二人で迎えに行きましたが、側溝で頭を強く打っていて、外科の先生から「あと3週間の命で治療はできない」とはっきりいわれ、家に連れて帰りました。体中が打撲で痛むらしくずっと唸っていましたが、先生のおっしゃる通り本当に3週間で亡くなりました。

舅と夫とはあまり会話もなく、仲が良いとは言えませんでしたが、私は高校生の時に実の父が亡くなっていたので、舅のことはとても頼もしく思っていました。美空ひばりの公演のチケットを買ってくれて、娘たちと観に行かせてもらったこともありました。

明治、大正、昭和と生きた舅は消防団の団長をしていたことで昭和42年11月3日、次女の6歳のお誕生日に勲六等・単光旭日章という勲章をもらっていました。

勲六等の賞状

東京での授賞式に行ったのかどうかもしりませんが、たまに菊のご紋入りのタバコをいただいたと言って、時々箪笥から出して見せてくれました。いつの間にか賞状と勲章があって、お祝いをすることもなかったけど、本当はとてもうれしかったのだと思います。受賞した文化の日が次女のお誕生日で、11月3日は「全国の人が伊早子のお誕生日を祝ってくれてるんやで」と言って門扉に国旗を掲げていました。次女はかなり大きくなるまで信じていたようです。

それから3年後、姑が舅の命日の二日前に他界しました。

目の見えない義母を長女と一緒にお風呂に入れてあげると、お風呂上がりに大好きなサイダーを一気に飲んで、「はあ~、極楽極楽」と喜んでいました。あの頃は、長女がよく手伝ってくれて助かりました。

いよいよ最後の時には「京子ちゃん、ありがとう」と言ってくれて、涙が止まりませんでした。お葬式が終わって家族だけになると、夫が泣きました。パパが泣くんだ…と子供たちは驚いていました。夫は姑が40を過ぎてからの子供でしたので、子供の頃は授業参観におばあさんのような母が恥ずかしくてとてもいやだったと言っていましたが、姑がなくなった時の夫は30代半ばでしたので、溺愛してくれた母は心の拠り所であっただろうと思います。そして、いよいよ自分よりも上の人がいなくなるという不安に襲われたのかもしれません。

舅は難波に遊びに行くと、必ず鰻を買ってきてくれましたので、帰りがとても楽しみでした。

今日は、舅と姑を忍んで鰻にします♪


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