見出し画像

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その二十五


今日は母のお話です。

1920年東京で生まれました。子供の頃に関東大震災に遭い、祖父は母を埼玉の祖母に預けて大阪に移り住み、新たにお商売を始めます。そこに丁稚奉公として父がやってきます。

大阪でのお商売が落ち着いたころ、家族で大阪に来ますが、その時は番頭さんになっていた一回りも上の父に、母は一目ぼれでした。そして母は17歳の女学生の時、私を生みます。

余談ですが、女学生時代に結婚して子供を産んだので、夫である父は母の保護者でもあったそうです。女学生なので、精神的には幼かったのか父に夢中で私のことは祖母に預けっぱなしでした。7人の姉弟の長女でしたので、母にとって私は一番下の妹のような存在だったのかもしれません。

父は母との結婚で養子に入りましたが、祖父が亡くなった後は家を継ぎ、母の家族からとても頼りにされて、普段は出張ばかりの父が家にいると、みんなが集まってきたので、子供の私は両親と話すことができませんでした。

そんな私を不憫に思って、父は時々、私だけを連れ出してお芝居や買い物につれて行ってくれました。それも戦後のほんの数年間、出かけたのも数回でしたが、父を独占できる最高に幸せな時間でしたので、よく覚えています。

母は、父のことが大好きで、とにかく愛されたくて36歳で未亡人になるまで父に尽くしました。

芸者さんたちに負けないようにお三味線と小唄、お琴を習い、お習字も得意で、父の仕事先への宛名書きはもちろん、身内を褒めるのはおかしいのですが、仮名文字が特に美しく、掛け軸にして飾っています。

料理も和食はもちろん、お客様がたくさんお見えになるお正月のおせちを作るときは特に張り切っていました。お正月の三が日が終わると、お飾りの鯛の塩焼きの身をほぐしてすり鉢ですって味噌とみりんを加えて鯛味噌を作り、父の故郷・宮崎の冷や汁を作って喜ばせました。

かなわないのは、お三味線もお習字も料理も、その他彼女がやることはすべて、自分以外の人、まずは夫、そして夫の連れてくるお客様、自分の姉弟、のちには孫や妹の子供達を喜ばせるための技術であり、道具でした。

阪神大震災の時も、両手いっぱいの荷物をもって、困っている人の家に届けていました。

新しいもの好きで、昔は家にオルガンやアコーディオンもありましたし、年を取ってからも、英語に変換できる電子手帳や、デジカメも携帯電話も持っていました。

1970年の大阪万博にも、開通したばかりの新幹線にも、ハトヤホテルにも娘たちと妹の子供たちを連れて行き、さらに東京に住む妹の息子たちも呼んで赤影ショーを観たり、私のことはほったらかしでしたが、孫たちはよく連れだしていました。

私が子供の頃、母はまだ日本髪を結って、普段は着物を着ていましたが、大正時代のおしゃれな人たちはモボモガ(モダンボーイ・モダンガール)と呼ばれたそうで、父の兄弟のカメラマンに撮ってもらった写真はモガ(モダンガール)のブロマイドのようでした。

きれいな人でしたので、再婚の話もいくつかありましたが、「徳七郎さんほどかっこいい人はいない」と言って、52年間未亡人を通しました。父が亡くなってからは、さすがにお嬢ちゃんではいられなくなりましたが、周りが驚くほど、妹弟のためによく働きました。

コーヒーが好きで、娘たちを連れてよく喫茶店にも行きました。注文するのは、決まってカツサンドとコーヒー。米寿のお祝いは道頓堀の㐂川さんに家族で行きました。足元が怪しかったので車いすに乗せて連れて行きましたが、コース料理をペロッと食べたのには驚きました。食べることが好きなのは血筋ですね。

今日は、久々に母を思い出してお昼はおいしいコーヒーを淹れてカツサンドをいただきます♪

カイノミビーフカツサンド


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?