徒然なるままに書いてみるのも、悪くない。
徒然なるままにひぐらし
硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなしごとを
そこはかとなく書きつくれば
あやしうこそ、ものぐるほしけれ。
私のnoteは雑記ブログだ。
テーマを絞っていないし、専門性も出していない。
なんとなく書きたいことはあって、自己紹介欄にもまとめてはいるけれど、明確には決まっていない。
毎日、何を書こうかなー、とパソコンに向かい、頭を悩ませ続けていると、
いつしか、
一日のうちに何度か、頭の中に
「つれづれなるままに…」
という言葉がやたらと浮かぶようになった。
中学のころ、枕草子や平家物語と一緒に暗記させられた徒然草の冒頭だ。
ほんと私がやってることも、そのまんまこれだよね。
心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書き作っている毎日っすよ、
兼好法師どの。
と大昔の人に語り掛けていたりする。
しかし…そこはかとなく書いてみたら、なんだと言ってたっけ・・・?
と最後の一節だけがどうしても思い出せない。
世の中は便利なもので、ググってしまえばすぐに答えが出る。
「あやしうこそ、ものぐるおしけれ」
つまりは、
「気ちがいじみた異常な気分になっちゃうな~」
というのが正解だ。
むむむ、わかるよ。わかりますよ!!!
文章書くのって、そういう性質が絶対にあるよね。
気分が変になっちゃうのね。
もう、かなり内面をえぐられてる感じで、疲れちゃったりするんだよ。
正直な自分が見えすぎて。
いろいろ考え始めちゃうのよ。
たった数行の文章だけで、こんな何百年もたった後の人の共感を呼ぶってすごいですね。中学生の時はわかんなかったし感動もしなかったけどさ。
やっぱりどう考えても、傑作なのね。
きっと、noteに投稿してたら、スキが何千万と来たのではないでしょうか。
ところで、『本当に書けない日は、「今日はなにも書くことありませーん」でもOKだよ、それでも毎日書くようにしようね』って、とある本には書いてあって、私はなるほど!と思って、これを指針にしているのだけども。
あながち。
兼好法師さんも
「まじで書くことね―な」
と思った末に、
「今なんとなく思ってることをそのまんま書いちまおう。」
と思って書いたのかもしれないよね、これ。
内容的にそんな感じじゃない?(笑)
もしそういうスタンスで書いたとしたら、文章の行き着く先とはわからないものですよ。
すごく暇な日に、「なにも書くことないなー」と思って苦し紛れに書き起こしたものが、何百年後にも読まれ続け、ある時は暗記対象となり、学生の頭を悩ませ、またある時は無名のブロガーの心をつかみ、励ましているとは。
「え、なんとなく書いたあれ、そんなことになっちゃってんの?うわあ」
と思ってるかもしれないよ。兼好法師。
え、そんなちゃらんぽらんな人じゃないって??
これは失礼。
トルーマン・カポーティのティファニーで朝食をの草稿がオークションにかけられて、5000万円で売れたというニュースを見た。
作者なき今、自分の書いたものに5000万の値が付くというのは、いったいどういう気持ちだろうか。
はたまた、悪名高き独裁者ヒトラーが書いた『我が闘争』は発禁処分となり、ドイツでは図書館における貸し出しも禁止。書棚に見張りが付くという管理の徹底がなされている。
書いた人はいなくなっても、文章は生き続けている。
そのいきつくさきは、よくも悪くも見通しはつかない。
私が書いているこれも、いつかはどこか「よきところ」に落ち着くのだろうか。
毎日何やってんのかな?と思わないでもないけれど。
しかし、やっていることは何百年と生き続ける兼好法師と同じなのよ。
間違っては、いないはずだ。