【音楽】水谷晨の個展を聴いて

3日前に、忙しい時期にはあまりかかってこないであろう連絡先から電話がかかってきた。発信者曰く、会場設営の人出が足りなくなってしまって、ちょっと手伝いに来てくれないかということだった。
いや本番直前にそんなことある?と思いつつ、まあなんか10年近くこういう感じだったし、感染症の世の中になって以降すっかりこういう用事で外に出ることもなくなってしまったし、ワクチンは接種済みだし、最近疲れ気味で本音は一日寝ていたかったけれど、友人が初めて個展をやるとなってだるいって断るのもなあと思い、「いいですよー」と返事した。
電話の主が、今回の主催の水谷晨であった。

設営を少しお手伝いする代わりにリハを見学させてもらったり、久しぶりにクラシック音楽周りの演奏家や作曲家の人たちとすこしお話ししたりした。

普段友人として雑な扱いをしたり、真面目な音楽の話から政治やら哲学やらサブカルやらの雑談をしたり、2019年くらいまでは突然居酒屋に呼び出されて酔っ払いの愚痴をきいたりしていたわけだが、当日はいつも以上に真剣に奏者や作品と向き合っている姿を見れた。

特にヴィオラ作品のリハーサルの時の姿は、数年前に来日した際に見た、演奏家と一緒に作品に向かい合うH.ラッヘンマンの姿を思い起こさせるものだった。

端的に言うとかっこよかった。やるじゃん。

演奏家の皆様は桐朋のご出身とのこと。
ある程度のレベルの作品を音楽として聴かせるには、ある程度のレベルの演奏家がどうしても必要だと思う。(別に書かなくてもいいことではあると思うが、技術的に平易な作品なら下手な演奏家でもいい、ということではない)

晨くんの作品は、演奏不可能なほど難解ではないにしても、決して簡単な作品ではない(と、僕は思う)。譜面を見るたびに説得力のある音楽だなあと思うものの、それを演奏会で初めて聴く人に、と思ったら、それ相応の実力のある演奏家の協力は必須だと思う。

その点、今日の演奏家はいい腕を持ったメンバーが揃っていた。《A Study of Difference and Repetition》は、彼が譜面を書き始めたころから知ってる作品で、音源でも聴いてはいたものの、実際に演奏会で聴くとその緊張感と繊細な音響をより間近で感じることが出来た。

当時会うたびに何かとドゥルーズの話を振られて、こちとら読んだことねーわと思いながらも話についていくために僕も読んだりしたことを思い出す。結局僕にはドゥルーズはまだよくわかってない。

《Harpocratēs》、演奏会があれば生で聴きたいという話は本人に何度かしたような気もする。この音響を、この沈黙を、生で浴びなければ得られないものがあるはずだと、動画を見た時から思っていた。
便利な時代、便利な世の中ではあれど、演奏会やライブはそこに行かないと得られない音楽体験があるのは、今も昔も、ジャンルを超えても変わらないと思う。(そして、これがVRや配信のライブが、リアルのライブの代替物に絶対になりえない最大の要因だとも思う。)

…さて、いろいろ書いたが、結局のところ『なんやかんや言っても彼は間違いなく天才なんだなあ』というのが演奏会を聴いた率直な感想だ。

この世界の友人が増えてからというもの、同世代の作曲家の作品を聴く機会は少なからずあった。それぞれにいいところはあって、うーんなるほど、これはいいなと思う作曲家も少なからずいた。

ただ、時間と空間を扱う技術、音楽それ自体に対するストイックさにおいて、水谷晨は一歩先に行っているなと感じる。

オランダで学んだ古典~現代までの音楽の技術、美学・哲学を土台とした眼差し、ジャズのイディオム、あらゆるものが融合し、そこから新たな音楽を創り出している彼の姿は、他の誰とも違う何かがあると思う。

端的に言って天才なのだ。現代音楽の世界で、かつ若手で、あそこまで聴衆をぐっと引き入れる音楽を作れる作家はそんなに多くないだろう。



よく一緒に長々と議論してて「めたさん手厳しい」なんて言われることもあったが、晨くんが僕に対して手加減しない人だということは良く知ってるし、この記事も僕が好き勝手書いてるので手加減なく書かせてもらった。

もちろん今回の企画自体も、個人的に本人に訊いてみたいことはあるといえばある。ただ、そういうことをあまりnoteに書きすぎてしまうのもちょっと違うなと思うので、そういうのはまた長電話したときにでも。


【なぜなら、芸術において私たちは、単に心地よい、あるいは役に立つ遊び道具とではなく、…真理の展開と関わっているからである。】

というヘーゲルの言葉がある。晨くんの音楽がここからどのような弁証法的な展開を見せていくのかを、いち友人として楽しみにしていようと思う。

2022.3.12. 生原愛/めたさん

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