「AI支配でヒトは死ぬ」を読んで【441/500】
今年は自分の思考を整理しようと思い、本を読んだらアウトプットを意識的にやりたいなぁと思っています。
小さい頃から、養老孟子、森博嗣、羽生善治の考え方が、何故か分からず好きで、本を読んできましたが、最近は歳をとったせいか少しずつ実感できるようになってきました。
今日は養老先生の「AI支配でヒトは死ぬ」を読んでいたので、読んで考えたことをまとめておきます。
養老先生の頭脳には及びもしないので、まだ理解出来ていないことも多いのだと思いますが、現時点での亀谷の解釈ですので興味のある方はご覧ください。
AI支配でヒトは死ぬ。 ―システムから外れ、自分の身体で考える― | 養老 孟司 |本 | 通販 | Amazon
何かを決めたがる脳と、現実とズレていく社会
世の中、自然というものは本来そこにあるものであり、全てが違うものだ。
だけど、人はそれを理解するために、そこに解釈を見出そうとする。
例えば、そこに石があったとする。
本来、「石」は、「あの石」と「その石」でひとつひとつ全く違うものなのに、これは何かを問われるとただ「石」という概念で処理される。
ひとの理解と解釈にズレが生じている。
それが「科学主義的」な考え方だ。
科学主義は世界のあらゆる現象をイコールで結んでいく。
身体が感覚で受け止めた理解をものに、脳が解釈を生み出していく。
脳は無駄な思考を省くため、カオスを削除し解釈を生み出し始める。
あまりにも脳によって理解しやすい社会「脳化社会」が進んでいくと、それは現実とズレ「身体」にとっては生きにくい世界になってしまう。
「脳化社会」が現実世界とズレだすからだ。
「脳化社会」の中で生きる人は、「意識の中で生きる人」となり、現実を生きられなくなる。その時、人はどうやって自由になれば良いのか?
瞑想するというのは、この状態を理解する一つの方法だ。
瞑想して「他人は他人」「自分は自分」と思って意識を突き放す。
そうすることにより、他人というのは自分が作りだしたイメージで、自分というのはここで息をしている身体なんだな。と本来の身体の感覚を取り戻す。
脳と身体を分離することによる、本来の現実を取り戻すのだ。
自らの経験から自足を知り生きるということ
科学主義が進む中、人が文学やアートを求めることにも意味がある。
文学やアートはある意味科学とは真逆のスタンスをとっている。
個別の事象を語ることで普遍的な何かを描く。
それが文学やアートだ。
普遍という山を考えた時に、共通する何かを探し求める科学とは全く別方向から山を登るイメージに近い。
文学やアートはいくら人から話を聞いても仕方なく、自分の経験を紡いでいくものだ。
人は良くクリエイティブを個性ととらえるけれど、本当のクリエイティブというのは「先が見える道」と「先が見えない道」とがある場合、「より先が見えない道」を選ぶことがクリエイティブにつながる。
本来人は目的があるから歩くのではなく、歩きたいから歩いてきた。
今ある自然、身体というのは作りだしてきたものではなく、結果としてこうなったもの。仕方ないものなのだ。
だから生きていくというのは、生きていく意味や目的を考えることではなく、自分の自足を理解し、それに対して忠実に生きていくのが正しい。
それが自由に生きるということだ。
「科学化社会」が進み、判断をAIに任せることを進める中、人は再度「自足」を知り、身体が理解する現実をそのまま受け入れ生きる方法を再度見直してみたほうが良いのだと思う。
と、まぁ、こんな感じだと思っていますが、もっと深いので興味のある方は養老先生の他の本も是非読んでみてください。
養老先生のYoutubeチャネルも面白いのでオススメです。
それではまた!