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『伊藤高志映画作品集』感想

短いフレーズを何度も繰り返しつつ、徐々に変化させるミニマルミュージックのような作風の映像集。コンセプトの妙と、それを実現するに要したであろう膨大な労力を想像して味わうのが正しい鑑賞法であると感じた。なので正直なところ、まばたきする暇を惜しんで画面を凝視しないほうが良いと思われる。格好いいからといってあまり真剣に映像を瞳に流しこんでいると、悪酔いや失神のおそれがある。これは決して冗談ではなく、伊藤高志の出世作『SPACY』(1981)に見られる赤と青の光を高速で切り替える演出は後年のポケモンショック(1997)を連想させる。

伊藤高志の作品に誠実に向き合うためには、映像に即した感想を述べるというより、浅田彰が『構造と力』(1983)でクラインの壺の例証として『SPACY』に言及したように、本作が提示するコンセプトから敷衍して現代思想チックな小難しい議論を展開するのが良いと思う。たとえば「自己言及性と、映像のコスパ演出について」など。それはつまり、ふつう、映像作家が1の労力をかけて10の効果を産み出すのを見て視聴者は感動するけど、伊藤高志の作品では10の効果を出すために100の労力をかけようとしていて、でも当初は1000の労力をかける予定で、それはさすがに現実的に無理なので100の労力で用意した静止画像素材を何度も使い回し、しかしまったく同じ映像が繰り返されると作り手側も視聴者も飽きるので、徐々に変化をつけつつ繰り返すことにした。それが結果的に自己言及性という人間の認識構造の例証となっているのである…という具合に感想を述べるのが流儀ではないだろうか。

もし伊藤高志の作品集からベストワンを選ぶなら、『悪魔の回路図』(1988)はたぶん高層ビルが主人公で、『鉄男』(1989)のラストシーンと同じくらい純粋な背景ストップモーションアニメであり、なかなかに捨てがたいが、個人的には円熟味の感じられる『zone』(1995)を推したい。初期作品のストイックさが緩み、手数が増えるだけの余裕が生まれたというか、ブラザーズ・クエイの『IN ABSENTIA』(2000)に通じる終末観と豊潤さが同居する感じが私は好きだ。


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