【哲学漫談】人間が股間を隠す理由――ミシェル・フーコー「性現象と孤独」より
※この記事は、ミシェル・フーコー「性現象と孤独」(『フーコーコレクション5 性・真理』所収)のパラフレーズです。
アウグスティヌスは、性行為は痙攣のようなものだ、と言いました。身体全体が身震いし、自分の身体がコントロール不能になる、と。
欲望は…一人の人間の全体を激しく揺り動かす。つまり欲望は、魂の情念と肉の欲求とを結びつけて混ぜ合わせ、身体における快感のなかでも最も大きな快感を招き入れるのである。ゆえに、その快感が絶頂に到達するとき、あらゆる明敏さといわゆる思考の警戒とはほとんど消滅してしまう。
――アウグスティヌス『神の国』
驚くべきことに、どうやらアウグスティヌスは、エデンの園において、つまり堕罪以前に性交渉が存在した可能性を認めていると思われるのですね。この解釈は、「神によってつくられた最初の人間であるアダムが原罪を犯し、その罪が性交を通じて子孫である我々人間に遺伝した」というオーソドックスな解釈に反します。
堕罪以前、アダムの身体の各部分は、彼自身の制御下にありました。エデンの園において、アダムが子供を作りたいと願ったとき、大地に種をまくのと同じように、自らのコントロールを失うことなく冷静にそれを行うことができました。彼は意思に基づかない興奮を知らなかったのですね。身体の各部分は指のように自由に動かすことができた。指で種をまくように、性器から種を撒くことができたのです。それでは堕罪のとき、いったい何が起きたのでしょうか。アダムは神に対して最初の罪を犯し、神に反抗しました。彼は、自分の意思が完全に神の意思に依存しているということを省みず、神の意思から独立して自由意思を手に入れようとしたのですね。この反抗に対する罰として、アダムは自分の身体を完全にコントロールできなくなりました。自分の身体が神と完全に一致していたときはコントロールできたけど、自分の身体が神から独立した結果、身体の一部がコントロール不能となったのですね。こうして、彼の身体の一部が、彼の意思に従うことをやめ、彼自身に対して反抗するようになります。彼自身に対して最初に反旗を翻したのは、生殖器でした。アウグスティヌスによれば、自らの性器をイチジクの葉で覆い隠すというポーズは、羞恥心の表れでは決してなく、彼の身体の一部が彼自身の承諾なしにうごめいたことを表しています。勃起した性器とは、神に反抗した人間のシンボルであり、意に反してうごめく性器の傲慢さは、人間の傲慢さそのものです。要するに、「勃起が不随意に生じ、エクスタシーは痙攣的である」という事態は、人間が神の制御を逃れ、神に反抗したというイメージを正確に反映しているわけですね。
「なぜ人間は股間を隠すのか。それは、性器を完全にコントロールできないこと、たとえば勃起や性的不能など自らの意のままにならないことが恥ずかしいためである。もし手足を動かすように、性器を随意に動かすことができたら、人間は性器を見られても羞恥心を感じなかっただろう」。珍説と言ってしまえばそれまでですが、なぜ、アウグスティヌスのこのテキストが重要なのでしょうか。それは、性現象と主体性との新たな関係を示しているように思われるためです。彼以前、古代ギリシャ時代において、性現象は社会的な位置づけを与えられていました。性交相手の社会的地位、たとえば金持ちか貧乏か、若者か年寄りか、奴隷か自由人か、既婚か独身か、といったことが重要でした。「誰と性交するか」が、そのまま日常的な経済活動に直結していたのですね。ところがアウグスティヌスにおいては、挿入ではなく、勃起が問題となります。ここで重視されるのは「誰と性交するか」という他者との関係ではなく、自分自身との関係です。正確にいえば、自分の意思でコントロールできる部分と、コントロールできない部分との関係です。
このように古代ギリシャ時代から初期キリスト教時代に移行するに伴って、他者との関係から自分自身との関係に、挿入の問題から勃起の問題へと移行したといえます。おそらく古代ギリシャ人にとって、孤独な現象としての自慰行為など取るに足りない問題だったのでしょう。
手淫する者への恐怖が芽生えたのち、ずっと時代は下りますが、19世紀フランスのある精神科医が象徴的なエピソードを残しています。その精神科医は患者をシャワールームに入れ、妄想を語らせた後、このように言いました。「すべては狂気にすぎない。これからは妄想を信じないように」と。患者はためらった後、承諾します。しかし医師は言います。「まだ十分ではない。以前にもあなたは妄想を信じないと約束したけど、その約束を破ったではないか」と。そして医師は患者に冷たいシャワーを浴びせます。「そうです、その通りです、私は狂っています」と患者は叫びます。「でも、私が狂っていると認めるのは、あなたに自白を強要されたからです」。シャワーの拷問が再開します。「わかった、わかりました、私は狂っています。すべては狂気でしかありません」。
患者の口から、「私は狂っている」という告白を得ることによって、「彼が狂っている」という真理が確定する。クレタ人のパラドックス(「すべてのクレタ人は嘘つきである」とクレタ人は言った)と同じ構造ですが、論理学的な真偽確定の話はさておき、このような自白強要手続きはキリスト教圏で17~19世紀頃、広く行われていたそうです。なぜこの医師は患者の自白を欲したのでしょうか?それが彼の職務であるとするなら、なぜ彼の生きた社会は患者本人の告白を欲したのでしょうか?
現在では残酷な拷問は禁止されているとはいえ、自白にしろ医師の認定にしろ、特定するという点では同じことです。何かが統御不能であったり予測不能であったりするとき、それが得体の知れないものとしてはじめて意識に上る。そして、その得体のしれないものに名前や症例を与えて特定する。特定化すること、定義することの裏側には、コントロール不能なものへの恐怖心が貼りついているのかもしれません。ざっくり図示すると、こんな感じです。
勃起(コントロール不能なもの)への恐怖心
→手淫する者への恐怖心。手淫する者は正常ではないかも?
→患者の自白や医師の認定による症例の特定
このプロセスは、「それは何か?」「私たちはいったい何者か?」という問いと軌を一にしているかもしれませんね。
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●参考文献です。
性欲が統御不能であるというアウグスティヌスの説は、『神の国』14巻16章で述べられています。岩波文庫では『神の国』全5冊のうち3冊目に所収。
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