メンタリストDaiGoの問題について(2)彼はどこから来たのか。


 地域コミュニティが崩壊したまま、戦後社会の中で構築されて受験教育一本槍の学校環境の中では、クラスの中は、競争社会のライバルの集まりになり、クラスメートの良好な関係は築けないだろう。

 戦後の初期の小中学校に通った私は、学校そのものがコミュニティであり、クラスの中には、成績優秀な者から成績の悪い者、スポーツ万能な者から苦手な者、人付き合いの良い者から悪い者、多様な人間が、同じ時間と空間を共有している感覚があった。それは、社会の縮図であり、社会というのは、いろんな人がいるんだなあ、ということを学校の教室で、肌感覚で理解することが出来た。

 自分の感覚に合う級友もいれば合わない級友もいる。いつも仲良しとつるんでいても、感覚に合わない人を、クラスから排除しようとは思わなかった。何かのきっかけで、肌に合わないと思っていた人と、偶然、仲良くなることもあった。級友の多様性は、可能性の多様性でもあった。

 それが社会が豊かになるにつれ、学校の役割が社会的関係性を体感する場所から、大学受験という目的を達成するための空間に変化していったのだと思う。ただ学校に行けば、そこにあったコミュニティに所属するだけだったのに、学校の内部で、生徒と生徒の競争を強いる場所になっていったのではないか。

「いじめ」が横行し、「不登校」があふれてきたのも、学校という空間が多様性を認めるコミュニティから、個人同士が競い合う場所になっていったからではないか。

 更に、情報社会の急速な発達は、学校というコミュニティから社会というコミュニティへ進んでいくという回路を遮断し、個人のレベルで、社会の情報がどんどん個人の情報回路と直結した。頭脳優秀な子は、学校から学ぶ以上の情報をインターネットで獲得する。社会の情報や知識を、分かりやすく説明するという学校の役割が、どんどん形骸化していったのである。しかし、文科省も学校も、方法論的には「何も知らない無知な子どもたちを教育する」という態度を変更することなく、カリキュラムの手法の改良だけに終始してきたように思える。

 情報化社会により、情報の伝達方法が革命的に変容しているのである。それに対応する、新しい学校の意味を問わなければならなかったのに。

 メンタリストDaiGoは、優秀な子どもだったろう。そして、多くの知識を学び、You Tubeで、プレゼンテーションの経験を積み、同世代や下の世代の支持を集めた。彼は、多様な人間の集まりである社会のあり方を知ることなく、知識と説得力だけを高めていった。若くしてYou Tubeで成功すれば、社会の中で妥協したり、屈辱を味わったりすることはないだろう。むしろ、社会にうちのめされている人間は、弱々しい敗者のように見えて、自分のように勝ち組になるための方法をプレゼンすれば、同じように学校で孤立している人たちの賛同を得られるのだろう。

 問題は、メンタリストDaiGo個人の問題ではない。私たちの社会における、学校のあり方の問題なのだと思う。

「教育」とは「教える」「育てる」空間である。しかし、現在の学校は「教える」ことに特化した追求をしているのではないか。「育てる」というのは、学校や先生が指導するということではない。人が育つのは、個人が環境全体の中からさまざまな経験を吸収して自らを育てることだと思う。すなわち、学校教育において、「育」の現場は、クラスメートによる関係空間のことだと思う。

 交流し、決裂し、妥協し、迎合し、反発し、和解する、そうした関係性の体験を行うのが、学校の「育」の現場だと思う。それはもしかしたら「学校」という枠組みでは成立しないのかもしれないが、この情報化社会には、大事な、社会装置だと思う。

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メンタリストDaiGoの問題について(1)


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