『資本論』から、様々な作品の「絆」、「身内に甘い矛盾」の危険性を探る
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注意
これらの重要な情報を明かします。
特に、『二重螺旋の悪魔』にご注意ください。
特撮テレビドラマ
『ウルトラQ』
『帰ってきたウルトラマン』
『ウルトラマンダイナ』
『ウルトラマンコスモス』
『ウルトラマンネクサス』
『ウルトラマンメビウス』
『ウルトラマンX』
『ウルトラマンZ』
特撮映画
『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』
『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』
『ガメラ2 レギオン襲来』
『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』
テレビアニメ
『宇宙戦艦ヤマト2199』
小説
『二重螺旋の悪魔』
『モモ』(ミヒャエル・エンデ)
『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』
テレビドラマ
『相棒』
はじめに
『資本論』について、資本の性質を『ウルトラマンネクサス』のスペースビーストになぞらえました。
ここでは、資本の性質から「絆」の善し悪しを考察します。
『資本論』と「子供」のいない怪物
『二重螺旋の悪魔』では、人間が誤ってバイオテクノロジーによりDNAから解放した怪物「C」=「GOO(ジー・ダブル・オー)」との過酷な戦いを描きます。
GOOは恐竜から変化したような生物で、金属の神経を持つようです。さらに情報を機械のように読み込む能力を持ち、それが独特の社会構造を持ちます。
GOOは情報を容易に読み込めるため、「勉強」の必要がない代わりに、「若い」という身体などの能力に関わる概念はあっても「子供」という存在の概念がなく、幼くても働いているそうです。つまり、「何も知らない子供」がいないのでしょう。
GOOの意思が統一されているわけではなく、労使紛争や愛玩動物の概念はあるようです。
そして、GOOに立ち向かう人間の主人公が率いる軍人も、「自分達も子供のとき(戦争前)から受験勉強に必死だった」と話しており、「人間社会も中世までは子供も働いていた」と指摘しています。これが歴史的に正しいか私にはまだ分かりませんが、ここで『資本論』を思い出します。
佐藤優さんの説明では、『資本論』は労働者の賃金の使い道を「自分の明日の生活、家族を通じた将来の世代の教育、自分自身の社会の変化に対応する教育」の3種に分類しているとされます。
すると、GOOは3番目を情報の読み込みで簡略化し、2番目も省くことで「子供への情」を持たない存在になったのかもしれません。
梅原克文さんの作品はウルトラシリーズへの影響があると私は推測していますが、これは本来子供向けのウルトラシリーズでは扱いにくい事象でしょう。
ちなみに私は、ウルトラシリーズは、「大人にも子供にも見せられる」物語であるべきであり、「子供しか見られない」物語でも「大人しか見られない」物語でもあるべきでないと考えています。
話題を戻しますと、現代社会、特に日本も賃金を削るばかりでは、将来への労働者自身の教育や子供の教育を軽んじて、GOOのようになってしまうかもしれません。
なお、GOOが人類に勝利するために目覚めさせようとした「味方」の正体や戦闘用形態は、この設定から見れば悲惨とも言えます。
スペースビーストに「子供」はいるか
GOOに似ているのは、『ウルトラマンネクサス』のスペースビーストとも言えます。
ビーストは人間を捕食して細胞単位で増殖し、「振動波」という現象で情報を伝達するため、子供どころか細胞の時点で生存を許されません。
人間と対立する、仮に捕食するバードンのような怪獣でも、『ウルトラマンX』などでは、子供に対して主人公やウルトラマンが情を抱くことはありますが、ビーストには「何も知らない子供」がいないのです。細胞の時点で人間の恐怖までも吸収し、情報を伝達していますから。
ビーストは人間のエネルギーや恐怖を利用する意味で、資本に似ていると私は考えています。資本の論理を突き進め、労働者の賃金を削り、労働者や子供の教育を軽視した先には、ビーストのような未来が待っているかもしれません。
『モモ』では、人間の時間を金融のように搾取する「灰色の男」がおり、その影響を受ければ人間も似たような存在になるとされました。
ただ、資本には歴史上、商人資本と金融資本と産業資本があり、それぞれ貨幣の増殖のさせ方が異なるかもしれませんが。
佐藤優さんは、『希望の資本論』で、「資本は人間と異なり死なない。死なない細胞であるがん細胞のようなものである」と説明しています。ビーストも、細胞1つでも残れば「生きている」という意味で資本に近いかもしれません。
「何も知らない子供」のいなくなった先
また、GOOの「味方」は生命を同化させる目的を持ち、ある意味で『ウルトラマンコスモス』のカオスヘッダーから善意を取り除いた存在だと言えます。
『ネクサス』のスペースビーストがGOO、『コスモス』のカオスヘッダーがGOOの「味方」に対応しているとみなしますと、教育の手間を人間から省いた先にGOOやビーストや「灰色の男」が、そしてさらにカオスヘッダーなどが待っているのかもしれません。
『二重螺旋の悪魔』では人間にもGOOに匹敵する能力が隠れており、その両者の能力をGOOの「味方」が同化させて利用するつもりでした。
カオスヘッダーも、ウルトラマンコスモスが怪獣「ゴルメデ」を「助ける」つもりで鎮静化させた隙に感染して操り、エリガルから自分を切り離したコスモスがエリガルを死なせたあと、そのエリガルになりすまして今度は自分を「鎮静化させる」ことでコスモスのエネルギーを浪費させるなど、自分と対立する相手すら逆に利用するつもりがあるようでした。
資本による窮乏で教育などの手間を省き、「何も知らない子供」への情すら捨てた先には、何らかのよりどころとしての同化の思想があるかもしれません。
怪獣同士やビースト同士に「絆」はあるか
『コスモス』では、怪獣の被害者の家族である軍人が別の怪獣を攻撃し、主人公のムサシは「怪獣が全部悪いわけじゃない」と言っていますが、確かに人間をかばうリドリアスなどの怪獣はいるものの、それは別の怪獣からかばったということであり、そのゴルメデすらムサシは助けようとしています。そもそも一度カオスヘッダーに操られたリドリアスによる犠牲者がいてもおかしくないことに言及しないムサシが、怪獣全体に甘いところもあります。
怪獣は別の敵からかばう以外に、人間を平和的に助けることはあまりありませんし、怪獣の利用をムサシは「怪獣は資源じゃない」と止めるので、つまるところ怪獣が人間に利益をもたらす選択肢をムサシも否定しています。
重要なのは、「損害を出した怪獣にそのあとどうするか」や「怪獣に利益を求める」だけでなく、「どの怪獣を、家族か生物種か怪獣という大きな範囲かのいずれかでくくるか」です。
ビーストは『コスモス』の倫理と相性が悪いでしょうが、この点に注意すれば、人間を殺すための知識や欲を共有しているので、リドリアスとゴルメデのような区別はむしろ必要ありません。カオスヘッダーも、全体で意思を共有していると認めているので、一度攻撃した相手が、次に現れれば「降伏する」とでも言わない限り敵対して構わないでしょう。
また、『コスモス』は「野生動物」の延長の怪獣が多く、完全に人工的な生命体は少なく、ロボットや改造された怪獣もむしろ被害者として扱いやすいですが、ビーストのように細胞から増殖する生命はあまりおらず、『コスモス』と『ネクサス』では「現実的な」ところと「非現実的な」ところの分野が異なるのです。逆に『ネクサス』で「野生動物」や「ロボット」が敵になることは難しいでしょう。
そして、何より、ビーストと疑われた「ウルトラマン」ことネクサスを除けば、基本的にビースト同士で争うことはなく、ビーストは互いに統一された目的を持つ、「マイナスの絆」を持つため、「ひとくくりにして構わない敵」だとも言えます。
また、カオスヘッダーの「秩序」やコスモスの「秩序」に当てはまらない「怪獣」はいるため、怪獣同士は絆を、人間を仲介しなければ持ちにくいと言えます。
『資本論』と環境破壊
資本は、『資本論』によれば「命がけの宙返り」をして遠くへと貨幣を移動していく性質があるとされますが、これが環境破壊に繋がると考えます。
私の推測では、生物などの資源には、ある集団や場所にとって、羊の肉や皮のように回復不能なストックと、毛のように回復可能なフローがあり、有限の資源をフローのみ定期的に消費する生物ならば、時間としては「無限」に使えるものの、ストックを消費すれば、「無限」を求めたときに他のストックにまで手を伸ばし、回復不能にするのを繰り返すようです。
人間以外の生物は基本的に、たとえば植物のセルロースを分解する酵素が流出して機能するなどのときに、周りのストックによる環境を破壊すれば、たちまち自滅して直ぐ終わるのに対して、人間はその環境から脱出「出来る」ため、自滅を「先送り」に出来るため、同じストックの消費、環境破壊を止めることが「出来ない」のではないか、と推測しました。「洪水よ、我亡きあとに来たれ!」のようにです。
そして、人間による環境破壊の大半は、「仕事」、「食べていくため」だからこそ止めにくいのであり、環境問題が「見えにくい現実」で、仕事などの経済の問題が「見えやすい現実」で、前者が理想論に見えやすいからこそ対立が深くなるのでしょう。
資本は「見えやすい現実」としての経済における人間の危機を解決するために、人間に環境破壊から自滅を「先送り」にさせる「救済」、別の環境に何らかの移動をさせる「命がけの宙返り」をして、「見えにくい現実」である環境への議論を阻みやすくするとみられます。
『コスモス』では、人間の環境破壊が本来は仕事のため、「見えやすい現実」のために行われやすいことを軽視して、破壊する人間を遊ぶ若者や態度の悪い軍人ばかりとして描き、「誠実さがかえって環境を破壊する」現実を見えにくくしています。「善意さえあれば環境は破壊されない」わけではありません。
そもそも、『ウルトラマンメビウス』で野生の地球怪獣のバードンの毒が「環境を破壊する」と指摘されたように、怪獣すら「環境破壊」の危険はあり、いずれ「自滅」する可能性や、それを防ぐための「命がけの宙返り」はするかもしれません。
ビーストは、きわめて速い「進化」や「学習」により、その「命がけの宙返り」を行いやすいからこそ、自滅を「先送り」にする傾向が強いとも言えます。地球とは別の惑星を滅ぼしかけて、住民に惑星ごと爆破されて地球に素粒子として逃げたらしいので、ビーストも自滅しかけています。
破壊や暴力の意識、知識の統一された「絆」やストックの消費による「自滅」の先送りといった、ある意味人間にとって弱者を守ることもある「善意」にもなり得る知恵と残忍さが、窮乏状態の中で活かされるとき、ビーストやカオスヘッダーのように環境を破壊することは、善意を持っていても避けられないとみられます。
防御より攻撃を優先する「絆」
さらに、「絆」が「残忍さ」と「無知」の連鎖反応を起こす場合もあります。
たとえば、『コスモス』の防衛軍の隊員同士にも、むしろ「絆」があるからこそ戦いをやめない可能性を私は考えています。
防衛軍の戦闘機は、設定によると、攻撃能力は高いものの防御が難しいところがあるらしいです。また、隊員の中には「命知らず」という設定の解説もあります。もしかすると、防御よりも攻撃のための設備を発展させる一方で、「防御など臆病者のすることだ」という「勇敢さ」に特化して、仲間も含めて犠牲者が増えても攻撃をやめられないのかもしれません。
人格の悪さを能力の低さにすりかえる
自分も含めた被害が出ることに反対されても「我々は臆病ではない、痛みを恐れない」という論理にすりかえるのは、『ウルトラマンZ』のレギュラーのヨウコにもあります。
『Z』では、敵のグリーザとウルトラマンジードの要素が融合して生まれた、会話する剣「ベリアロク」をウルトラマンゼットが使い、そしてそれをヨウコも目撃しています。ヨウコはベリアロクを自分が使うことになったとき、ベリアロクが断ったのを「どうせあいつ(敵の宇宙人)を斬れないんでしょう」と挑発しましたが、それは冷静に考えれば論理のすりかえです。結局のところ、人格の悪いのを忍耐や努力といった能力の問題のせいにしています。
似たようなすりかえは、『相棒』で財産や権力を持つ資産家の加西の差し金で撃たれて、その加西を逮捕してもらえなかった刑事の出雲にもあります。彼女はその加西が命を狙われても一切謝罪せずに警察に助けを要求したのに対して、「チキン野郎」と罵りました。彼女は相手の人格が悪いのを、いつの間にか「臆病」さや能力の低さにすりかえています。「チキン」というだけならば、加西の権力と暴力に怯えたり「忖度」を認めたりする大半の人間が同罪になってしまいます。
実際に、加西が換気の細工で殺されたときに別の刑事も「いくらこの間抜けでも不用心だ」と言っており、人格を能力にすりかえています。また、出雲は男性優位の傾向のある刑事の世界を「化石みたい」と言っており、「人格が悪い=古い=弱い」にすりかえたい残忍さもあります。
ヨウコもやや態度の悪い上司のユウキマイの作り出した兵器「D4レイ」を撃つときに、それが最初はヨウコと兵器自体と周りの市街地に被害を出したのに対して、2度目は兵器と自分にだけ反動が来るように「改良」されており、撃つのをためらうときに動揺していました。おそらく、「自分と兵器にだけ負担がかかるときにためらうのは、自分の心配しかしていないからではないか?自分は耐える能力も低いだけでなく、人格も悪いのではないか?」という迷いがあったとみられます。ベリアロクにヨウコがした人格と能力のすりかえを、彼女は自分自身にもする「公平さ」があったのかもしれません。
実際に、ゼット=ハルキも、ベリアロクが敵か分からない「トゲトゲ星人」=ジャグラーに使われても、「剣が俺を選んだ」という論理に言い返せなくなっています。「剣に選ばれない」にせよ、「敵を斬れない」にせよ、「自分の意にそぐわない弱さが悪い」とヨウコもジャグラーも主張してしまっているのです。
ベリアロクがヨウコにした「周りを攻撃する、周りに協力しない」などの「人格」の問題を、ヨウコが「協力出来ない、耐えられない」などの「能力」の問題と混同してすりかえる残忍さは、『コスモス』の防衛軍にもあったかもしれません。
つまり、防衛軍は一度怪獣を攻撃して反撃で仲間に犠牲者が出ても、次に防御を攻撃より優先したり撤退したりすれば、それまで犠牲になった仲間の能力だけでなく人格まで否定してしまうとすりかえを起こし、だからこそ同じような戦いをやめられないのかもしれません。
『宇宙戦艦ヤマト2199』で、「誠実な」軍人として描かれるドメルが、敬意を払う敵に負けて、戦いをやめるのを薦められても自爆したときに、そのような姿勢がありました。「これまで死んだ仲間が無駄死にだったことにしたくない」と。
防衛軍には軍に関係のない家族が怪獣の犠牲になったことを根拠に戦う人間もいますが、防衛軍の隊員の一部は、仲間が犠牲になったのを、その仲間の先制攻撃や防御能力の低さのせいにしたくない「絆」が戦いをやめにくくしているのかもしれないと推測しました。
開発をやめない主人公の「絆」
たとえば、『メビウス』では人間による宇宙開発を前向きに捉えており、バードンについて「怪獣の方が環境を破壊する」というある意味で斬新な視点もありますが、人間による環境破壊は軽視しています。
小説版『アンデレスホリゾント』では、火星に開発に向かった父親が宇宙人に攻撃されたことを恨んでウルトラマンまで敵視するハルザキカナタが主人公ですが、『コスモス』などを踏まえた私から見て、かなり視野が偏っています。
『帰ってきたウルトラマン』で、「気候調査」に来ただけであまり暴力を振るっていないメイツ星人が人間に殺されて、『アンデレスホリゾント』で「同胞」が賠償を求めるのを、カナタは「調査とは侵略のためではないか、殺されて賠償だなんてどの口で言っているのか」と言い切っていますが、そのメイツ星人の息子が自分に似た境遇だったことから少しずつためらいました。
しかし逆に言えば、カナタの父親が火星に行ったのも、火星に生物がいれば「侵略」とみなされる可能性があります。『コスモス』劇場版1では「宇宙人を地球に受け入れるべきか」に関して、幼いムサシが小学校で「地球の人間だって火星に行こうとしている」と指摘して、同級生は「それとこれとは別だ」と言っていますが、カナタは無自覚に、父親の問題と目の前の宇宙人の問題を「別」だと割り切り、父親を悪く扱う視点が欠けています。
さらに、そもそもカナタ達の防衛チームすら火星の鉱石を兵器に利用しています。『ウルトラQ』で火星の知的存在が人間の開発に「警告」したとみられるのを『アンデレスホリゾント』では、わずかしか言及していません。そもそもウルトラシリーズは、人間が侵略者になりかねない物語なのです。
父親などの身内が不幸に遭い、それに「侵略」や「環境破壊」などの責任があるとしても、身内のせいにはしたくない「絆」が、外部から見れば「同じ過ちの繰り返し」を引き起こし、『コスモス』の防衛軍のように映るかもしれません。
『ティガ』では、家族と共に地球侵略に来たらしいレギュラン星人が、反撃で家族を見捨てて自分だけ生き延びたのを棚に上げて復讐しようとしていましたが、「家族との絆を忘れた開発は侵略と変わらない」というナレーションは、問題の十分条件になり切れません。他の侵略者は、母星にいる家族や身内のために「一所懸命」に、「ひとつのところを命がけで守るつもりで」侵略している可能性もあります。
ただし、『ティガ』でも、エノメナやイルドなど、人間をいつ操るか分からない敵に複数の人間が立ち向かったとき、シンジョウなどは、相手と自分のどちらが先に操られるかを確認したり撃つ覚悟を示したりしており、その意味では「身内に厳しい」とも言えます。それこそ「絆」であってほしいと私なら考えます。
ウルトラマンへの嫉妬をやめない「絆」の繰り返し
『ティガ』劇場版でウルトラマンティガの能力を複製しようとしたサエキが失敗して現れた怪獣により死んだことについて、『ダイナ』で妹のサエキレイカは「怪獣に大切な人を殺されたから、力が欲しかった」と述べていますが、その行動がウルトラマンダイナのエネルギーと能力を奪い兵器を作ることでした。
ある意味サエキレイカは「学習していない」とも言えます。おそらく兄と同じく、ウルトラマンへの嫉妬があり、「兄の失敗は運が悪いからであり、本人の人格や能力のせいではない。幸運を独占するウルトラマンの方が悪い」とみなしたのでしょう。
しかし、『ダイナ』では「ネオフロンティア」として人間が宇宙や地底などに進出して、それが外部の怪獣などを敵にすることもあり、それでも開発をやめない主人公のアスカ=ウルトラマンダイナ達も「学習していない」ように映るかもしれません。『地球はウルトラマンの星』のインタビューでも、それらに否定的な意見はあるだろうという推測があります。
アスカに嫉妬していた人間のフドウが、自分に似た怒りを持つ人間に「逆恨みしている」と言っていますが、アスカ達も開発により攻撃されて反撃するのは、外部から見れば「逆恨み」かもしれません。隊長のヒビキは、人間を批判してきたスフィアが最後に人間を「同化」して「救い」と主張したときに、「死なない代わりに変化しない人間はロマンもない。矛盾だらけでも構わない。俺はそんな人間が好きだ」と話しています。
そのため、『コスモス』の防衛軍も、『Z』のヨウコも、『ダイナ』のアスカやサエキも、自分達に被害の出る能力や人格の問題を改善せずに、「敵」や「気に入らない相手」のせいにするのを繰り返す「矛盾だらけ」なのかもしれません。その「身内に甘い矛盾」が「好き」になるのも、おそらく本人達にとっては「絆」です。
ただ、アスカは人間に「逆恨み」はしないようなので、サエキなどに比べて視野の広い「絆」があります。
避難を怠るのを怪獣のせいにする
『ガメラ3 イリス覚醒』では、ギャオスなどの怪獣から人間を守るようにも見える怪獣のガメラが徐々に甚大な被害を出すようになり、マスコミや自衛隊もガメラと対立し始めましたが、ガメラ抜きにギャオスなどの敵に勝てるかの議論をおざなりにしています。
しかし『3』を見る限り、ガメラやギャオスが市街地に現れても避難が遅れており、まずはそれによる犠牲を考慮すべきではないか、という印象がありました。
前作『ガメラ2 レギオン襲来』での自衛隊は、敵の植物の侵攻が止められるかについて、ある段階で、根拠をもって、「花が咲いた時点で我々の負けだったんですよ」と上司に主張して撤退しています。しかし、自衛隊は、宇宙から「何か」が来て、「この世界のタガが外れたのかもしれない」という抽象的な危機感を話す人間に「外れていようと守るのが我々の仕事です」とも話し、完全にあきらめた様子はありません。
一方『3』では、いまひとつ原因は分かりませんが、避難などの、怪獣が敵でも味方でも必要な対策の議論が自衛隊やマスコミに足りず、それを怪獣だけのせいにして、自分や身内の不足を認めないために悪循環に陥っています。
自分や身内や味方の部分的な間違いや敗北を認めることで、次の新しい勝利や被害の減少などの対策に繋げる是正が、『2』にはあったのが、『3』には乏しく、それが「身内の間違いを認めない矛盾」、すなわち負の絆かもしれません。
「身内」と「自分」の区別
『二重螺旋の悪魔』のGOOも、労使紛争の様子があっても、自分達の世界を作り上げるためにただ戦っているだけで、人間の容姿が互いに「吐き気を催す」から敵対している可能性も指摘されています。
そして、『二重螺旋の悪魔』の「黒幕」は、人間も自分も生態系を破壊すると認めています。その「黒幕」も、ある意味「身内」が「自分」しかいない存在であり、「自分の過ちを認めるのに慣れていない」と解説されました。
まとめ
『コスモス』の防衛軍も、『ネクサス』のビーストも、『ダイナ』のサエキレイカや『アンデレスホリゾント』のカナタなども、自分や身内の間違いによる被害を認めるのに慣れていないために、外部から見れば「同じ間違い」を繰り返し、なおかつ「命がけの宙返り」のように破壊した環境から仲間と共に生き延び続ける善意や能力があるからこそ、やっかいな問題を引き起こすのかもしれません。
参考にした物語
特撮テレビドラマ
円谷一ほか(監督),金城哲夫ほか(脚本),1966(放映期間),『ウルトラQ』,TBS系列(放映局)
本多猪四郎ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1971,『帰ってきたウルトラマン』,TBS系列
村石宏實ほか(監督),長谷川圭一(脚本),1996 -1997,『ウルトラマンティガ』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),川上英幸ほか(脚本),1997 -1998(放映期間),『ウルトラマンダイナ』,TBS系列(放映局)
大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)
小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2015 (放映期間),『ウルトラマンエックス』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),吹原幸太ほか(脚本),2020,『ウルトラマンZ』,テレビ東京系列(放映局)
特撮映画
村石宏實(監督),長谷川圭一(脚本),2000,『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)
飯島敏宏(監督),千束北男(脚本),2001,『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』,松竹(配給)
金子修介(監督),伊藤和典ほか(脚本),1996,『ガメラ2 レギオン襲来』,東宝(配給)
金子修介(監督),伊藤和典ほか(脚本),1999,『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』,東宝(配給)
テレビアニメ
西崎義展(原作),出渕裕(総監督・脚本),2013,『宇宙戦艦ヤマト2199』,TBS系列(放映局)
テレビドラマ
橋本一ほか(監督),真野勝成ほか(脚本),2000年6月3日-(放映期間,未完),『相棒』,テレビ朝日系列(放送)
小説
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(上)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1998,『二重螺旋の悪魔(下)』,角川ホラー文庫
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 上』,朝日ソノラマ
梅原克文,1993,『二重螺旋の悪魔 下』,朝日ソノラマ
ミヒャエル・エンデ(作),大島かおり(訳),1976,『モモ』,岩波書店
朱川湊人,2013,『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』,光文社
参考文献
斎藤幸平,2020,『人新世の「資本論」』,集英社新書
池上彰,佐藤優,2015,b,『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』,朝日新聞出版
カール・マルクス(著),今村仁司ほか(訳),2005,『資本論 第1巻 上』,筑摩書房
カール・マルクス(著),今村仁司ほか(訳),2005,『資本論 第1巻 下』,筑摩書房
斎藤幸平,2020,『人新世の「資本論」』,集英社新書
斎藤幸平,2021,『NHK 100分de名著 カール・マルクス『資本論』』,NHK出版
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
的場昭弘,2008,『超訳 『資本論』』,祥伝社
マルクス(著),エンゲルス(編),向坂逸郎(訳),1969,『資本論 1』,岩波文庫
マルクス(著),エンゲルス(編),向坂逸郎(訳),1969,『資本論 2』,岩波文庫
てれびくん編集部,2003,『ウルトラマンコスモス超全集』,小学館
切通理作,2000,『地球はウルトラマンの星』,ソニー・マガジンズ