君の味方
不安や恐怖、トラウマに立ち向かうために必要なことはふたつ。
細分化と、一歩ずつ。
私がこの数年間で身につけた方法である。
私は大学で建築学を学んでいて、切り離すことのできない設計課題というものが存在する。
建築というとほとんどの人が想像する、意匠の分野である。
家や広場や学校など、テーマと敷地が与えられて、それに沿うように自由に0から建物を考える実習である。
面白そうと思う人も多いだろうし、実際面白いけれど、内実はかなりブラックだ。
まず、0から1にする作業というのはすごく頭を使うし、知識も必要だ。
考慮すべきことが山ほどあって、次から次へと問題に直面する。
その問題をひとつひとつ考え、作り直し、図面を書き直し、何度も何度も修正していく。
徹夜するのが当たり前の文化で、無理をしてでも自分史上最高の建物を作るのに夢中な人が集まっている。
それは素晴らしいことだし、そうできる人は心から尊敬している。
しかしそんな優秀な人たちに囲まれて、早々にリタイアしたのが私だ。
不規則な生活と、常に締切に追われる毎日は私を刻々と追いつめていき、気がついたら取り返しのつかないことになっていた。
結果、私は休学した。
しかしその時はまだ、建築学への意欲や情熱を失っておらず、むしろそれらがあるからこそ休学を選んだのだった。
満身創痍でギリギリの状態で建築に向き合って嫌いになるより、一度休んで調子が安定した上で余裕を持って情熱を注ぎたかったのだった。
一年休み、復学を果たした。
それから2週間で、再び学校に行けなくなった。
それは建築への恐怖からだった。
楽しく行っていたはずの設計課題が、締切に追われるうちに、色んなところから情報を収集して考えるべきことをリストアップしているうちに、私の前に越すことのできない高い壁が立ちはだかるように感じたのだ。
この恐怖から逃げるように、編入を志したこともあった。
再び復学し、建築に戻ることを決意した時には、建築が恐ろしくて、怖くて、不安で不安で、復学は2,3ヶ月も先だというのに、毎日泣いていた。
それくらい、私にとって建築は私を脅かす恐怖の対象で、私に大きな不安をもたらす害悪であった。
それから復学を果たして1年、私は設計課題を終えようとしている。
この1年の間に私なりに工夫して身につけた、不安や恐怖への向き合い方を綴っておこうと思う。
まず、どうしてそんなにも大きな不安や恐怖に襲われるのかについて考える。
そもそも、人間は先のことを考えると不安になる。
まだ起きてもいない未来のことは、分からないから怖い。
それから、不安や恐怖は肥大していくのである。
例えば私が、最初は設計課題について恐怖を抱いたのにも関わらず、建築が怖いと思っていること、それ以上に、大学自体が自分には向いていないと思ったり、勉強することが怖いと思ったりすることである。
また、それら大きくなった不安や恐怖の壁を、一気に乗り越えなければならないと思うから怖いのである。
例えば私が、復学する時に、もしも一回でも授業を休んだら全てが終わると思っている所以である。
だから、細分化と、一歩ずつが大事だ。
まずは肥大化した不安の細分化を試みよう。
私は何が怖いのだろう。
勉強。
私は今まで、たくさん勉強をしてきた。高校受験に大学受験。誰よりも何よりも時間を割いた自信があるし、私は普通の人より勉強に慣れている。ならば「勉強」が怖いのではない。
大学。
私はコロナ禍でも1人で授業を受けられていたし、遅刻はしていたけれど大学にきちんと行けていた時期はあったし、友達もいる。
私が怖いのは「大学」ではない。
授業。
大学の授業は長いし面白くないけれど、耐えられないほどではない。それにそもそも受け身の授業ばかりだから、気づけば終わっている。
私が怖いのは「授業」じゃない。
課題。
課題は正直本当に面倒くさいし、やらないと単位がもらえない。でもたいして時間はかからないし、自分1人で立ち向かわなければそんなに大変ではない。
私が怖いのは「課題」ではない。
この時点で、私に残った不安の対象は、「設計課題」であることに気付く。
さらに細分化を試みる。
私は、設計課題の何が怖いのだろう。
敷地調査は行けばいい。大丈夫。0。
1回目のエスキス。何もないところから自分の案を出すのはちょっと大変。でも最初は先生も優しいから割と大丈夫。20。
2回目〜中間講評前のエスキス。先生にダメ出しをされると、一生懸命考えてきた時間が無駄になった気がする。もう一度同じ時間をかけて考えなくてはいけないことを思うと、しんどくなる。50。
中間講評。絶対にみんなの前で発表しなくてはいけないのが嫌だ。でも時間がないのでそんなに多くは言われない。20。
最終講評。色んな先生の前で発表して、評価されることが怖い。でも選ばれなきゃいい。10。
こうすると、私にとっての主な不安は、「エスキス」であることに気がつく。
さらに、「自分の頑張りが認められないまま、次の頑張りを要求されること」が怖いと気付く。
これが、細分化である。
越えるべき壁は、実はそこまで高くはないのである。
続いて、一歩ずつ。
これは、弱い不安からひとつひとつチャレンジして、1番高い壁にトライすることである。
私の例で言えば、まずは勉強にチャレンジしてみる。
休学期間には、編入試験勉強に挑んだり、取れなかった単位の勉強をしてみたりした。
それから大学に行く。
復学した。これは大きなことに思えるけれど、復学の手続きをすることは簡単だった。
それから学期が変わり、大学生に戻ることも、それだけなら何も辛いことはなかった。
続いて授業を受ける。
これは少し怖かった。知らない学年に混じって受けなければならないし、何より久しぶりで、90分受けるのが不安だった。
しかしここでも、一歩ずつである。
まずは10分クリアして、30分クリアして、ひとつ目の授業が終わって、1日目の授業が終わる。この10分は大丈夫だった。30分大丈夫だった。1限大丈夫だった。1日大丈夫だった。これの繰り返しである。そうやって1分1秒や1日を乗り越えた。
課題に取り組む。
ひとつ目の課題が出た時には、一気に締切があるストレスにさらされたけれど、やってみればそんなに大変ではなかった。いっぱい課題が出て困惑しそうな時は、ひとつずつ。締切の近いものから順にこなしていく。そうして気付いたら全て終わっている。
設計課題。
敷地調査は行けばいい。大丈夫。
1週目、とりあえず適当でもいいからエスキスに参加できた。大丈夫。
2週目以降、ここは唯一私が耐えるべきところ。ここさえ耐えられればもう大丈夫。そう思って泣きながらも耐えた。
そうやってひとつ目の課題が終わった。
気が付いたら4つ全て終えていた。
1日1日の積み重ねである。
毎日、今日はこれができれば及第点、を繰り返した。
細分化と、一歩ずつ。
もしも不安や恐怖でいっぱいで、それでも乗り越えたいと思った時は思い出してみてほしい。
ちなみに、私はこれを、セルフ認知行動療法の本で学んだ。
そちらの方が分かりやすいと思うので、よかったら読んでみてね。
私は強くなることや、不安や恐怖を乗り越えることが全てだとは思わないけれど、それによって、嫌いな自分が少しでも好きになるのなら、必要なことなんだと思う。