
父の真骨頂
92歳、しかも男性となればもう十分に長命だ。
1932年、昭和7年生まれの父は第二次世界大戦の大阪大空襲を生き延び、12歳の成長期に戦後の食糧不足の憂き目に遭った。
「俺の背が伸びなかったのは、一番食べたい育ち盛りに食うもんがなかったから。」
とよく言っていた。同年代でも高い人は高いと思うが…。
大阪大空襲は小学校の卒業式の前夜。
雨あられと降る焼夷弾によって住んでいた家も小学校も、町ごと一夜にして焼け野原と化した。
全てを失ったが幸運にも家族は皆、無事だった。
近所のお姉さんが防空壕の中で亡くなっている姿や、大勢の悲惨な亡骸や負傷者を目の当たりにした凄惨な光景は、忘れようにも忘れられない。
空襲の話はたまにしてくれたが、あまり話したくないようだった。
まざまざと鮮やかに思い出されてしまい胸が潰れつらいと言った。
思春期の感受性鋭い12歳の少年に深いトラウマを残したのだ。
焼け出され、生きていくのに精一杯。
決まっていた進学の予定は流れ、家族総出で働かざるを得なかった。
給与は全額、家へ渡し、そこからお小遣いをもらい、たまに映画を観に行くのが好きだった。
進学の思いは消えず、通信教育で学んだ。成績は良かっただけに悔しかったようだ。
エンジニアとして働き、どうすれば上手くいくか考えるのが好きだったと言う。
自分の頭で考え、様々に工夫しやってみる。
トライアンドエラーを厭わない。
その精神は父の誇り。
職場で信頼を得、母と出会い結婚。
二人の子をもうけ、家を建てた。
退職後は脳梗塞で倒れた母の介護、家事をよくがんばってくれた。
そのおかげで母も86歳まで長生きすることができたと思う。
母を亡くしても父は過度に気落ちする様子を見せず、デイサービスへ通い、皆とワイワイと喋り、場を盛り上げ笑って過ごしていた。
熱中症で倒れて以来、短期記憶が著しく欠落するようになったが、生来の明るさで乗り切ってくれているようでホッとしていた。
昨年夏に再度、自宅で倒れ、施設へ入居することになったが、12月あたりから食事量が落ちた。
デイサービスでもおとなしく過ごすようになったと聞いて心配していた。
しかし、まあ92歳なのだから仕方ないだろうと様子をみていたが、今年の正月に
これは…来年も一緒に新年を迎えられるだろうか…と不安がよぎった。
施設の部屋へお正月のご馳走を持参し、皆で一緒に食べたのだが、父の箸が進まないのだ。
元々、胃は強くない。
消化器科へ受診するべきか?
いや、それで万一にも潰瘍や胃がんが見つかったらどうする?
治療するのか?どこまで治療する?
思い悩んでいるうちに父が発熱した。
血液検査をしてもらうと、なんとヘモグロビンが4.1(正常値は12まで)という重篤な貧血が判明し、救急車で緊急搬送。
そのまま入院となり、CT検査で胃がんが見つかり、そこからの出血による貧血とわかった。
「俺はがんにはならん。がんの家系ではない。」
昔からずっと父がそう断言していたので、根拠なく私もそうだと思い込んでいた。
更に検査を進めると、がんは「巨大な腫瘍」で胃から小腸への通りも悪くなっている様子。
そこでバイパス手術を勧められ、受けることにした。
胃を取ってしまう大手術は高齢の父には耐えられない。
手術が成功したとしても予後が非常に悪い可能性が高い。(3人に1人は肺炎で死亡するらしい…)
胃と小腸を繋ぎ、通り道を作るバイパス手術は内視鏡で手早く手術でき、体への負担が少ない。
ところが、手術後も父の食事量は増えない。
食欲そのものはあるのだが、食べられない状態が変わらない。
気付けば、父はかなり体重が落ち痩せてきている。
1年前はかかりつけ医に
「肥え過ぎです。おやつを減らしてください。」
と言われていたのに。
それでもバイパス手術は問題なく成功しているので、いったん施設へ帰って養生しようと退院したのだが、その翌日、また救急車で搬送され、元の病院へ戻ることになった。
その日、私は主人と雪の高野山に出かけていた。

六角経蔵は取っ手を持って、お堂の台座の板を回すことができる。
賽銭を入れ、私が回し始めると周囲にいた外国人観光客から驚きの眼差しで注目を浴びるのを感じた。
ギィと音を立てながら取っ手を押し、お堂を一周する。
「お父さんができるだけ穏やかに過ごせますように…」
半年から1年の余命と宣告された。
とりあえず施設でゆっくりと穏やかに過ごせる時間が少しでも長く続くと良い…
そう願った高野山からの帰り道、施設から
「これから緊急搬送します。どのくらいで施設まで来れますか?」
と電話がかかってきた。
昨日退院で、また!?
いくらなんでも早過ぎる…。
どうも、大量に下血したらしい。
お手洗いを汚してしまい、掃除している父にヘルパーさんが気付いてくれたそうで、動き回るものだから部屋中、大変なことになっていたと……。
すぐにヘルパーさんを呼べば良いのに、自分で何とかしようとがんばるのが、父らしい律儀さではある。
搬送先の医師は
胃がんで下血するのは仕方なく、危険な状態ではない。本人の意識もしっかりしているので施設へ帰ってもらって構わないといったん言ってくれたが、
血液検査の結果の数値に異常があり、CTでも気になるところが出てきて、
医師からその説明を受けている最中に吐血し、状況が一変した。
「急変もあるかもしれません。
もしかしたら、今夜中に…ということも…」
と医師に伝えられ、青ざめた。
造影剤を使ったCTを撮り調べると、胃がんが更に大きくなり、肝臓にまで影響を与え始めていることがわかった。
わかったが…治療のしようがない。
本来ならば、緊急手術をするところだが、それは高齢者に耐えられるものではない。
入院し輸血と点滴を受け、止血のため絶食が決まった。
余命は2〜3ヶ月とまた短くなった。急変もあると言う。
高野山で祈った「穏やかに…」ってそういう意味ではなかったのに。
「父の顔を少し見ることはできますか?」
そう願い出ると、救命救急の部屋へ案内してもらえた。
恐る恐る父のベッドへ近付くと、
「お〜っ、来てくれたんか。悪いなぁ。」
といつもの調子で、拍子抜けした。
とは言うものの、吐血した跡が唇の端に少し残っている。
コンビニでもらったお手拭きがバッグにあるのを思い出し、取り出してそっと父の口を拭う。
「気分は?どう…?」
「気分か?気分は上々や!」
これには私も主人も駆けつけた弟、医師や看護師も微笑んだ。
空元気かもしれない。
でも皆を笑わせることができ、父は満足げ。
ああ、これこそが父の真骨頂!
「このようにお元気に見えるので…
最初、僕も施設へ帰ってもらっても大丈夫だと言ってしまったんですが…
この何時間かの間にも刻々と状況が変わってしまって…申し訳なかったです。」
医師に頭を下げられ恐縮した。
これまでもそうだったが、父に自覚症状はいつもない。
コロナで39℃の発熱があった時でさえ、
「熱なんてない。どこも悪くない。」
と言い張った。
「具合が悪いと感じないのは…
超高齢者特典かもしれないんですけどね。」
私がそう言うと医師はうつむいてクスッと小さく笑った。
ウケて思わず、「ヨシ!」と嬉しく思うあたり…やはり私は父の娘だ。
胃がんが進行するのには数年かかるらしい。
母を亡くしても落ち込んだ様子を私には見せなかったが、その実、大きなストレスを溜め込んでいたのかもしれない。
深刻で重篤な病状ではあるが、とりあえず悲しい顔はせずに笑っていよう。
父が自分らしく居られるように。
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