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初めての中目黒

8月に引き続き、10月にも東京を訪れた。その目的は二つあった。

一つは東京に住む義理の息子を岡山に呼び戻すというもの。建築士の夫は70歳を過ぎたあたりから、色々と限界を感じていて、できれば息子を側において、仕事を手伝って欲しいと思っている。しかし、上から目線で、「目的を持って生きろ!」とか言われても、息子は反発するばかり。そこで、義理母の出番となった。彼が「うん」と言うまで、美味しいものをご馳走しながら、やんわりと説得を重ねるつもりでいる。

そしてもう一つは、私自身の勉強のため。私はカフェを切り盛りしながら、小説を書いている。その小説の舞台となる昭和レトロなカフェを探し、その佇まいやメニューからインスピレーションをもらうのだ。さらに、自分自身の料理をアップグレードするために、ちょっと背伸びして、話題のレストランにも行ってみる。今回は中目黒のICARO miyamotoにお邪魔した。

話は逸れるが、そこはInstagramで知り合った、東京在住の人から紹介されたイタリアンレストランである。彼とは、「近々会えるといいですね。」とお互いに言いながら、結局、住む世界が違い過ぎて、会わずにお別れした残念な経緯がある。裕福な彼にとって貧乏な私は、投資という形で援助したい対象だった。彼は、人生のパートナーと投資の弟子?を同時に探していた。

夫のいる私は、彼の期待には応えられず、私のために多額の資金を用意して待っていた彼に最後の感謝のメッセージを残して、LINEをブロックした。彼の父は韓国人で、母は大阪出身だと言っていた。米国で働いていた時につらい離婚を経験していた彼は、日本に定住したいと言っていた。今度こそは人生を最後まで共にできる、優しくて安心できる妻を探していたに違いない。お互いの存在確認のために、一度だけ音声通話で短い会話をしたことがあるが、美食とエクササイズのおかげか、彼の声には艶があり、若々しかった。

犬を飼っている私は、つい癖で、「その人はどんな匂いがするんだろう?どんな肌触りなんだろう?」と想像してしまう(好奇心というものは本当に厄介なもので、足を踏み入れてはならない所に気持ちを向かわせる)。それを確かめるのはとても危険なことで、自分のお金に対する価値観や結婚生活をも破壊することが予想された。

それで、もう会うことはかなわない、その人が吸った空気と食べた料理だけでも味わおうと、女友達二人と中目黒に向かったのだった。友人の一人の仕事の都合で、午後8時15分からの予約になった。深夜0時まで営業しているので、ゆったりと楽しめそうだ。中目黒駅の西口を出て、飲食店が続く通りを5分ほど歩いて高架下を左折すると、右手の瀟洒なビルの4階にICARO miyamotoはあった。

エレベーターを降りると、ダークブラウンのウッディーな扉が迎えてくれた。料理の値段から予想される、「敷居が高い」感じはない。そこがオーナーの宮本さんの人柄を予想させた。彼の言う「骨太」なイタリアンってどんな味がするのだろう?

奥の窓際の席に案内される。ここなら、女3人がかしましくおしゃべりしても大丈夫そうだ。オーナー自ら注文を聞いて、料理をサーブするスタイルはなかなか心地よい。私たちが食べられる量から、お勧めのメニューを紹介してくれる(メニューは日々変わるので、手書きだ)。パンも、皿が空くといつの間にか新しいのが載っている。オーナーはツバメの親鳥のように、テーブルからテーブルを回りながら、客の必要を満たしている。

前菜二品、パスタ一品(麺好きの私はもっと色々試したかったが、オーナーのアドバイスにより、一品のみ)、メイン一品とデザートとドリンクのコースである。せっかくの機会だから、アルコールもシャンパンと軽めの赤ワインを1グラスずつ。メインの牛フィレ肉のステーキの時に、オーナーがワインを勧めてくれたが、酔っ払って泣き出してはいけないので、「もう結構です。」と言ってしまった。重めの赤ワインをもう1グラス頼めばよかった。

しかし、何が一番美味しかったかって聞かれたら、「パスタ!」と迷わず答える。自家製の細いパスタを、ボルチーニ茸とイタリア料理の出汁・ブロードを使ってシンプルに仕上げてあった。くたっとした見た目のパスタは、旅疲れした歯(私は疲れが溜まると奥歯が痛くなる)に優しい。オーナーお勧めのパスタだけあって、確かに美味だった。ブロードを作って、旬の茸を道の駅で手に入れて作ってみよう。日本でボルチーニって栽培していないのだろうか?

デザートはチョコレートのテリーヌをいただいた。失恋にはチョコレートが一番だと、若い頃には思っていたが、確かにそうかもしれない。この歳になって、失恋などしないはずだったが…(恋を失うためには、それをしなければならない)。夫は彼の存在を知ってはいたが、私の気持ちには気づいていない。この歳になって、妻が他の男性に恋をするなど、考えもしなかっただろう。

この経験は、私の最初の小説「お花が欲しいのです」のベースになった。小説の中では、二人とも幸せになったので、めでたしめでたし、なのだが、現実の小さな船の幸せを守った私は、小さなカフェで新しいメニューを編み出しながら、カレーの鍋をかき混ぜている。


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