Vol.6 40代ワーママが働きながら通信制大学入学〜50代で卒業するまで(忘れられないスクーリング)
※これは私が40代後半で通信制大学に入学し、50代にようやく卒業するまでの記録です。話があちこちにそれるかもしれませんが・・・どうぞお付き合いくださいませ。
(前回のお話はこちら)
忘れられないスクーリング
私の社会人通信制大学の中でもし「忘れらない科目は何でしたか?」と聞かれることがあれば、迷わず答えられる授業があります。
それは初めてスクーリングで受講した、日本の近現代文学に関する授業でした。
文学とは何か・日本文学の限界と可能性について
スクーリングの初日、冒頭で先生はこんな話をしました。
「日本文学の定義とは何でしょうか」
「文学を辞書で引くと『言語を使って美的価値を表現したもののこと』とあります。
では日本文学とは何でしょう? 日本国籍の人が英語で書いた文学は日本文学ですか?カフカはユダヤ人、チェコの人ですがドイツ語で文学を書き、『ロリータ』の著者であるナボコフはロシア人ですがフランス語で小説を書き、アメリカに渡ってからは英語で書いています。
国籍によって文学は変わるのでしょうか。こう考えると『国文学』の定義は破綻していきます。実際に日本では明治以降「国」が変わり、国文学が変わり、かの漱石はこの境界線や定義が分からなくなったので自分で文学論を書きました。」
「文学」と「国語」は違うということ
「文学をしていると『文学・・あぁ、国語の先生ですね』と混同されることが多いですが、これは全くの間違いです。
みなさん、中学高校の国語で『こころ』や『舞姫』を読んだ記憶はないでしょうか。確かに文学は国語に出てきますが、アプローチの仕方が全く違うのです。
国語は文学の勉強ではないのです。
義務教育を経て高校に行くと、経済や調理などそれはもう様々な分野に行く人がいますが、どこにいってもコミュニケーションという手段が必要になってきます。これをおろそかにしてただ単純な手段だけを学んでいると『表現』が乏しくなるので、文学を出題しているのです。
だから『舞姫』に出てくる主人公はひどい奴だ、『こころ』のKはかわいそう、という感想は合っているのです。この感情が読み取れれば国語としてはもう十分です。
他者の意図が分かるようになって初めて医学や経済を勉強する。これによってより良い社会を作る人間になれるのです。
一方、文学は『なぜ漱石はこの本を書いたのか』という意図や、社会、個人的な背景を知る必要があります。なのでアプローチが全然違うという訳です。
世の中にはつまらない本もたくさんありますが、それは文学の価値、文学の意味を問うものとして考えればよいのです。」
小説は「人情」が大切
「坪内逍遥は『小説神髄』で、『小説は生態風俗(世の中のあり様)より、煩悩(性欲・金銭欲など悪いよこしまな欲望)を描くことが必要』と説いています。
存在する欲望を抑える理性を書くことが小説、人情の奥を穿ち、心の全てを書いて人情を釈然と見せること。これが小説家だ、と言っています。
ここまでいくともう心理学のようですが、では心理学者は小説家になれるのか?というとそれはまた別個のお話ですね。」
倫理道徳と文学は別
「前置きがすっかり長くなりましたが、皆さんに言いたいのは『倫理道徳と文学は別だ』ということです。
森鴎外はなぜ舞姫を書いたか。夏目漱石の『こころ』はKを殺した人をなぜ主人公にしたか?単なるかわいそう・不道徳ではなく『なぜこのような人を主人公にしたか』を考えるのが文学です。
儒教的な考えで良い悪いを判断するのは文学ではありません。ここまでを整理理解して初めて私達は文学の道に迷い込むのです。」
大学で文学を学ぶ意味
当時の私の授業のノートから掘り起こしたので多少ニュアンスの違うところはあるかもしれませんが、大体先生はこのようなことを仰っていたと思います。
単順に「本が好き」くらいの感覚で履修を決めた私からするととても衝撃的でしたが、それと同時に
「あ、私が学びたかったのはこのことだったんだな」
と、ストンと落ちたのを覚えています。
作品の表面にある面白い(面白くない)ではなく、作品そのものが生まれることになった背景、作者の意図は何なのか。
それは一見するとなんということは無いストーリーの奥に隠された秘密、作者からの本質的な問いかけ、狙い、挑戦があるかもしれない。
それらを知ることで朧気ながらでも作品の奥深くまで入り込むことができたら。
きっと更に文学が好きになってしまう・・・!
と、今までにないくらいの高揚感に気持ちがわくわくしてきたのでした。
※(Vol.7)へ続く予定です。またお時間ある時に、お付き合いくださいませ。