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『メゾン・ド・ヒミコ』と、家でも職場でもない場所
いま、矢沢あいの『Paradise Kiss』(以下、パラキス)を読んでいる。そして最近、映画『メゾン・ド・ヒミコ』を観た。同じ時期に触れたのは本当に偶然だったけれど、(「Y2K新書」の影響はデカい)この二つの作品には共通している点があると思った。
それは、主人公の若い女性が、家でも、職場でも、学校でもない場所に半強制的に通うことになり、その場所の存在がどんどん大きくなっていくというところ。
パラキスでは、アトリエ。『メゾン・ド・ヒミコ』では、ゲイ限定の老人ホーム。どちらも、ドタバタと、巻き込まれるように、仕方なく、そこで過ごす時間が増えていく。家系、借金、自身の秘められた能力、、、いろんな理由に巻き込まれて、ミッションまで課せられて、逃げ道がない。腹をくくって、やってやるしかない、って感じで。
こういう構図、最近あまり見ない気がする。わたしが思いつく限りだと、『ホスト相続しちゃいました』はそんな感じだった。
ただ、未だにこのパターンが高い人気を博しているジャンルを、わたしは確かに知っている。夢小説だ。
夢小説
夢主と呼ばれるオリジナルキャラクターと架空のキャラクターの関係性、または架空の世界での夢主の活動を描く、創作小説の一種。主に二次創作で使われる名称。
夢小説は、一人称主観で話が進んでいくことが多く、「巻き込まれた」感を結構演出しやすい。「わ、わたしが~?!」がめちゃくちゃ横行している。
必ずしも相手が現実的なキャラクターであるとは限らないので、例えば、死んだ父親が実は裏社会稼業もやっていたとしたら、姐さんとして荒くれものたちを仕切っていくのがベター。喧嘩とかしながら。そこで危ない目にあっても、巻き込まれている以上、守ってもらえる大義名分がうまれやすい。わたしを守りながら、銃撃戦を生き抜いてよ!
と、夢小説の話ばかりしているが、『メゾン・ド・ヒミコ』が夢小説的だと言いたいわけではない。この映画を令和に観た人間として、いろいろ思うところがあった。
この構図は、クィアを特別化させてしまう。自分の父親がつくった場所に集まった、特殊な人たちと過ごす日々…といったところだろうか。この映画がつくられたとき、世の中の認識がどんなものだったのかわからないけれど、普通に生きていたら出会えない人たちって感じがした。あくまで、マジョリティからみたマイノリティだった。
でも、主人公の沙織(柴咲コウ)が、メゾン・ド・ヒミコを介して大きく成長したり、性格が急に明るくなったりしなくてよかった。それに、春彦(オダギリジョー)が、沙織とちゃんと喧嘩していたところも好きだった。「お前には関係ない。」って。
分断は良くないけれど、ディスカッションは必要だから。令和まで時代は進んだけど、相変わらず、マジョリティ側が、マイノリティのためのあれこれを決めていると思うし。
セックスが嫌いで、女装に興味がないゲイ。イメージも、カルマも背負わないクィアに出会える物語が、もっとたくさん増えるといい。
さいご、沙織とメゾン・ド・ヒミコのみんながまた会えてよかったな~。
『メゾン・ド・ヒミコ』はU-NEXTでみられるよ♡