人物と思想で読み解くインド叙事詩『マハーバーラタ』3:マーヤー

ヴィシュヌのマーヤー

インド神話には、「マーヤー」と呼ばれる不可思議な力の話がある。これは、古くは天空の至高神ヴァルナが得意とするものだったが、やがてヴィシュヌ神に特徴的なものとされていく。ただそれ以外にも、悪魔の一族アスラもマーヤーを用いる。アスラのマヤは、『マハーバーラタ』の主役の英雄であるパーンダヴァ兄弟のためにマーヤーで宮殿を建てた。また、戦闘において羅刹たちがしばしばマーヤーを用いる。

ヴィシュヌのマーヤーは、とくに宇宙的な意味をもつ。このような一文がある。

「神々、人間、ガンダルヴァ、蛇、羅刹、および不動のものを創り出してから、私は自己のマーヤーによりそれらを回収する。行為の時が来ると、私は再び姿を持つことを考え、人間の身体に入って、道徳の規範を保つために自己を創造する」。(『マハーバーラタ』3, 187)

彼はマーヤーによって世界を創り、マーヤーによってそれを維持し、最後にマーヤーによってそれを破壊するのだ。それに関して、このような一文が「バガヴァッド・ギーター」に出てくる。

「主は一切万物の心の中に在る。からくりに乗せられたもののように、マーヤーによって万物を回転させながら」。(『バガヴァッド・ギーター』18, 61)

ナーラダ仙の体験したマーヤー

世界のすべては、マーヤーであるのだ。この不可思議な力は、日本語を当てると「幻力」となる。この世はすべて、ヴィシュヌの見せる幻であるのかもしれない。

このマーヤーの性質をよく表すとされる話がある。エリアーデが紹介している、現代語でインド人のラーマクリシュナが語った神話だ。ただ、その基になった話はプラーナに遡り、決してそこに表れている思想が新しいというわけではない。(エリアーデ著、前田耕作訳『イメージとシンボル』せりか書房、1974年、97~98頁。)

ナーラダ仙が苦行の果てにヴィシュヌの恩寵を得て、ヴィシュヌにマーヤーを示し賜えと願う。ヴィシュヌはナーラダを従え、太陽が照りつける荒漠とした道に出て、喉が渇いたから近くの村から水を汲んでくるように頼む。ナーラダは村へ行き、一軒の家で水を請う。家から一人の美しい娘が出てくる。その娘を見つめているうちにナーラダは本来の目的を忘れる。

時が流れ、ナーラダはその娘を娶り、結婚の喜びと生活の苦しみを味わう。十二年の歳月が流れ、ナーラダには三人の子がある。ある日洪水が起こり、一夜にして家は水に流される。

ナーラダは片方の手で妻を支え、もう一方の手で二人の子を抱え、一番小さな赤ん坊を肩にかつぎ、濁流と戦いながら道を切り開く。しかし彼が足を滑らせたとき、赤ん坊は濁流に落ちる。彼が赤ん坊を探しているうちに、残った二人の子と妻も濁流に呑まれる。ナーラダも流され、岩の上に打ち上げられ、あまりの不運に泣き崩れる。

その時、聞きなれた声が彼を呼ぶ。

「私が頼んだ水はどこにあるのか。私は三十分以上もおまえを待っているのだ。」

ナーラダが振り返ると、濁流が渦巻いていた場所には、ただあの荒漠たる地があるのみ。

ヴィシュヌは言う。「わたしのマーヤーの秘密を理解したか?」

この話に表われているように、どうやらマーヤーとは、人の人生――その生きる時間と空間を、リアルなものとして創り出す、しかしそれは実は幻でもある、ということのようだ。

現実と虚構。その境界とは何か、考えさせられる。

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