FGOのインド英雄:ラーマ、カルナ、アルジュナ


1.ラーマとシーター、天と地の恋
ソーシャルゲームのFGOはストーリー性に富むゲームであり、その人気から、現在世界で最も読まれている物語のひとつと言っても過言ではない。
そのFGOの1部5章に、「ラーマ」が出てくる。インド二大叙事詩の一つ『ラーマーヤナ』の名高い主人公だ。
『ラーマーヤナ』とはどのような叙事詩か、簡単に説明したい。『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』よりも新しく、2世紀頃の成立とされている。作者は聖仙ヴァールミーキだ。特徴としては、主人公のラーマ王子とその三人の兄弟が全てヴィシュヌ神の化身であるというところにある。『マハーバーラタ』では様々な神々が英雄や女性に化身して、それぞれの役割を果たしていた。それに対して『ラーマーヤナ』ではヴィシュヌの存在感が強いといえる。
そのあらすじは以下のようなものである。

コーサラ国のダシャラタ王はアシュヴァメーダ(馬祀祭)を行い、三人の妃との間に四人の子をもうけた。カウサリヤー妃はラーマを、スミトラー妃はラクシュマナとシャトルグナを、カイケーイー妃はバラタを産んだ。いずれの子もヴィシュヌ神の神徳を授かっていたが、特にラーマは魔王ラーヴァナを退治するためにヴィシュヌ神が化身したものだった。
ラーマは成長すると強弓を引く試練を経てジャナカ王の王女シーターを妻に得た。やがてラーマの王位継承者への即位が決まったが、召使いに唆されたカイケーイー妃の計略により、ラーマは森に追放され、カイケーイー妃の息子バラタが王位継承者となった。シーターとラクシュマナはラーマに従って森に行った。バラタは兄の履物を玉座に安置して、兄の帰国を待ちながら政務に勤しんだ。
森でシーターは魔王ラーヴァナに攫われ、ラーマとラクシュマナの苦難の旅が始まる。ふたりは猿王スグリーヴァとその大臣ハヌマーンの助力でシーターを発見し、魔王の羅刹軍と戦いシーターを取り戻す。
ところがラーマはシーターの貞操を疑い遠ざける。しかし火神アグニが彼女の身の潔白を証明した。
長い統治が続いたが、民衆から再びシーターの貞操を疑う声が上がったため、ラーマは妊娠しているシーターをヴァールミーキ仙のもとに連れていく。そこで彼女は二人の息子クシャとラヴァを産んだ。
シーターはラーマへの忠誠を誓って大地に消えた。ラーマは嘆き悲しんだが、その後も長く国を統治した。

このように、ラーマとシーターの夫婦は、一時的に結ばれるが、別離に終わってしまう。では、ゲームではどうだろう。
FGOでは、ラーマは北米における聖杯戦争の場に現われて、主人公らと行動を共にし、捕らわれの妻シータを探し出す(FGOではシータと表記)。しかしこの二人には呪いがかかっていて、ラーマかシータ、どちらかしかこの世に存在することができない。ラーマが現われるか、シータが現われるか、どちらかなのだ。二人は「出会うことができない」のだ。ラーマが存在し続けるためには、シータは消えなければならない。二人は、いにしえの神話を超えてもなお、結ばれることがない定めなのだ。
ラーマは瀕死の傷を負っていた。シータはそれを自らの身に引き受けて、消えていった。

このようなゲームの物語は、神話のラーマとシーターの物語の、単なる別離という以上の構造を(おそらく無意識のうちに)忠実に受け継いでいる。
ラーマはヴィシュヌの化身であるが、化身はサンスクリット語で「アヴァターラ」という。この語は「(天からの)降下」という意味を持つ。つまりラーマは「天」に起源をもつ英雄なのだ。したがって、死してのちは天界に還り再びヴィシュヌとしての姿を取った。
一方王妃シーターは、「大地」そのものといっていい存在である。シーターはジャナカ王が地面を掘っている時に鋤で掘り起こされた赤子であった。大地から生まれた彼女は、二度目に貞操を疑われた時、大地の割れ目から現れた玉座に座って地下界へ消えていった。
つまりラーマは「天」であり、シーターは「大地」なのだ。この物語は、天と地の、愛と別れの物語といえるだろう。天と地は離れている。人間や動植物が生きていくために、離れていなければならない。しかしこの両者は「対」をなしていて、夫婦なのだ。離れていなければならない定めの、夫婦。

天と地の夫婦の別離は、世界の神話においてしばしば表れるテーマだ。たとえば、ニュージーランドのマオリ族の神話に、次のような話がある。

「天と地の別離」
はじめは何もなかった。全ては全くの「無」から始まった。始まりは「夜」だった。暗黒の夜は、計り知れないほど広く長く続いた。
そこへ「光」がさした。それは虫が放つ光にすぎなかった。
時が経ち、大空ができた。天空神ランギである。ランギは月と太陽を作ったのち、大地の女神パパと一緒に住んで子供たちを作った。
その頃、天空は十の層からなっていた。その最下層の部分が大地の上に横たわっていて、大地を不毛にしていた。
ランギとパパの子供たちの神々はひたすらに続く闇にとうとう疲れ果て、人間を生み出すために、両親を何とかしなければならないと話し合った。両親を引き離さなければならない、という結論に至ったのだ。
タネ・マフタという森の神が肩と両手を大地につけると、足の裏を空にあて、力の限り空を押し上げた。空はうめきながら、じりじりと、大地から離されていった。こうして大空と大地の間に大きな空間ができて、光も降り注ぐようになった。ランギとパパは苦しみに満ちたうめき声を上げた。「なぜこんなことをするのか。両親の愛をどうして殺そうとするのか」と。
大空のランギと大地のパパは今でも深く慕いあっていて、朝露はランギの、霧はパパの涙ともいわれる。(アントニー・アルパーズ著、井上英明訳『ニュージーランド神話』青土社、1997年、24-40頁、および山田仁史『新・神話学入門』朝倉書店、2017年、97-99頁参照) このモチーフは他に、エジプトでも見られる。大地の男神ゲブと天空の女神ヌトは夫婦で抱き合っていたが、父神シュウによって引き離された。天と地の神の性別が逆だが、これもやはり天地の別れの神話だ。
天地の夫婦の分離という原初のできごとに、古代の人々は豊かに想像を巡らせたのだろう。そしてその感動は、連綿と続いている。現代世界において、おそらく最も多くの人に読まれている神話的なゲームの中に。

2.アルジュナとクリシュナ、カルナとドゥルヨーダナ
次に、FGOで「マハーバーラタ二大英雄」のようにして登場するアルジュナとカルナについて見ていきたい。FGO1部5章ではこの二者が対立関係を持ちながらもあたかも「マハーバーラタの両雄」であるかのように表現されているが、実は原典では、アルジュナはクリシュナと、カルナはドゥルヨーダナと、それぞれ「対」をなしており、アルジュナとカルナの「対」という構造はFGOのオリジナルといっていい、新しい見方である。
そこでまず、アルジュナとクリシュナ、次いでカルナとドゥルヨーダナについて、原典ではどのような話になっているのか、見ていきたい。
 
アルジュナはクル国の王子パーンダヴァ五兄弟の三男である。その生まれは尊く、父は戦神にして神々の王であるインドラ神だ。『マハーバーラタ』随一の英雄に成長し、アグニ神から授かったヴァルナの神弓ガーンディーヴァを操り、ほかにも多くの神々から授かった神的武器を用いて大戦争を戦った。
アルジュナの第一の特徴は「一人きりの放浪の旅」にある。彼は三度、兄弟や妻と離れて旅に出る。一度目の旅は、妻が発端だ。アルジュナの妻はドラウパディーという名の絶世の美女だが、パーンダヴァ五兄弟はこの女性を妻として共有している。つまり、一妻多夫婚という稀な結婚形態である。兄弟は、この結婚によって兄弟間に諍いが起こらないよう、結婚生活に際しての決まりを作った。他の兄弟がドラウパディーと共にいる寝所に入って行ってはならない、もし入れば十二年間の放浪の旅に出なければならない、という決まりだ。ところがアルジュナは救いを求めてきたバラモンのために、やむをえずユディシュティラがドラウパディーと共にいる部屋に踏み入り、そこにあった武器を取った。それによって放浪の旅に出ることになった。これが一度目の旅になる。
二度目は、ユディシュティラの命令により、神々から武器を授かるための修行の旅に出た。その時には断食をして厳しい苦行を行った。
三度目は戦争の後、ユディシュティラが行う大祭・アシュヴァメーダの準備のため、馬とともに旅をした。
アルジュナは旅によって成長していく英雄なのだ。
アルジュナの第二の特徴はクリシュナとの友情にある。二人は共に火神アグニの要請に従ってカーンダヴァの森を焼いた。戦争ではクリシュナがアルジュナの戦車の御者となって多くの助言を与えた。このとき『バガヴァッド・ギーター』がクリシュナからアルジュナに語られ、究極の平等の境地であるヨーガの秘密が明かされた。

次にクリシュナについて見てみよう。クリシュナはヴィシュヌ神の化身のひとりとして『マハーバーラタ』の時代に地上に生をうけた。ヤーダヴァ族の名高い英雄であり、様々な活躍をし、クルクシェートラの大戦争においてはパーンダヴァの参謀の役を果たしたばかりでなく、アルジュナの戦車の御者として彼を導いた。
クリシュナとアルジュナが、友人というにははるかに密度の高い関係にあることは、彼ら二人を示すサンスクリット語の用語によく示されている。「クリシュナウ(二人のクリシュナ)」、「ナラ・ナーラーヤナウ(二人のナラ(=アルジュナ)とナーラーヤナ(=クリシュナ))」などのように語尾がサンスクリット語の「緊密な一対」を表すときにのみ使われる双数形auになっているほか、ただ「タウ」と、三人称代名詞双数形でアルジュナとクリシュナの二人を指す場合もある。「かの二人」といえばクリシュナとアルジュナのことだと分かる、という認識が見て取れる。

ハーヴァード大学のインド神話学者マクグラスは、クリシュナとアルジュナの友情について論じた著書で、クリシュナには「三つの層」があると述べる。(Kevin McGRATH, Friendship in Epic Mahabharata, Ilex Foundation series, 9, 2013.)「牧人」としてのクリシュナと、「英雄」としてのクリシュナと、「神」としてのクリシュナの三つだ。これらに由来する性質がクリシュナの中に混在している。そしてマクグラスは、アルジュナと友情を結ぶクリシュナは、「英雄=人間としてのクリシュナ」である、と述べる。なぜならば「人間は神の友たりえない」からだ。人間の友である以上は、そのクリシュナもまた人間であろうというのだ。
しかしはたして本当に、アルジュナの友人としてのクリシュナは「人」なのかだろうか。マクグラスは「人間の英雄としてのクリシュナ」と「アルジュナ」の対を強調しているが、両者は「神と人」としても対を形成しているものと思われる。たとえば永遠に存在し続けるクリシュナ=ナーラーヤナと、転生を繰り返すアルジュナ=ナラについて、下記のような記述が『マハーバーラタ』にある。
(クリシュナ)「私は多くの生を経てきた。あなたもそうだ。アルジュナよ。私はそれら全てを知っている。だがあなたは知らない。」(上村勝彦訳)6,26,5(「バガヴァッド・ギーター」)

つまり永久に繰り返す輪廻の中で、クリシュナもアルジュナも何度も生まれ変わり、何度も出会った。その記憶をクリシュナはすべて持っている。しかしアルジュナはすべてわすれて生まれ変わる、というのだ。
マクグラスの言うように人間は神の友たりえない、のではなく、人間であっても神の友である、そのことこそが最高に重要なのではないか。
異なる次元同士の存在、神と人、それでも友情を結べる――。
神と人との近さ。それは、もしかすると欧米の人々には想像がつかないのかもしれない。彼らが信じる一神教の神は、人間や地上世界から遠く隔たっているからだ。

さて、このように原典ではアルジュナとクリシュナが緊密な対を形成しているが、これと対立するのが、次に取り上げるカルナとドゥルヨーダナの対だ。カルナとドゥルヨーダナについて、原典に即して見ていこう。

カルナの母はアルジュナらと同じ、クンティーだ。その生まれはアルジュナと同等に尊く、父は太陽神である。その証として生まれながらに黄金の耳輪と鎧を身につけていた。クンティーがカルナを身ごもったとき、彼女はまだ結婚前の少女であった。不行跡が親族に露見することを恐れたクンティーによって、カルナは生まれてすぐに川に流された。そのカルナをクル国のドリタラーシュトラ王の御者(スータ)アディラタとその妻ラーダーが拾い、養育した。そのためカルナは別名をスータプトラ(「御者の息子」)、ラーデーヤ(「ラーダーの息子」)という。
アディラタはカルナが成長したのを見るとクル国の都ハースティナプラに旅立たせた。そこで彼は弓術をドローナに師事し、クル王子ドゥルヨーダナと友情を結んだ。ドローナ、クリパ、パラシュラーマから四種の武器を習得し、最高の弓取りになった。最初に会った日からカルナはアルジュナと競い合った。
やがて成長した王子たちのため、クル王家において御前試合が行われた。アルジュナが登場して神的な技を披露していると、カルナが現れて同等の業を見せた。カルナがその生まれを問いただされるとドゥルヨーダナが彼をアンガ王に任じ、二人は友情を誓い合った。
カルナは耳輪と鎧を着けているかぎり無敵であった。そこでアルジュナの父神インドラが、バラモンに変装してカルナに耳輪と鎧を自分に与えることを要求した。カルナは求められたものはそれが何であっても与えるという誓約を守っていた。そこでカルナはこのバラモンの姿をしたインドラのために、自らの身体から鎧を削り取り、耳輪を切って血の滴るそれらをインドラに与えた。代わりにインドラはカルナに一撃必殺の槍を与えたが、それには一度しか使えないという制約があった。それまで彼の名はヴァスシェーナ(財宝とともに生まれたから)であったが、以来、その行為により、ヴァイカルタナ(「みごとに切り離した者」)と呼ばれるようになった。
インドラに与えられた槍を、カルナは宿敵アルジュナを殺害するために使うと心に決めていた。しかしクリシュナの策略により、大戦争でクル軍を窮地に陥れた、ビーマと羅刹女ヒディンバーの息子ガトートカチャ殺害のため使われた。
クルクシェートラの大戦争ではビーシュマ、ドローナのあとに将軍となったが、三日目に戦車の車輪が地面に沈んだ時、アルジュナによって殺害された。
 
このカルナと友情を結んでいたのがドゥルヨーダナで、悪徳の人物であるが、カルナは固い友情を裏切ることをしなかった。
悪の化身として生まれたドゥルヨーダナ。彼が生まれた時、世界に様々な異変が生じ、凶兆を表した。王弟ヴィドゥラは兄であるドリタラーシュトラ王にその子を捨てるよう進言したが、王は息子への愛着からその提言を拒んだ。
ドゥルヨーダナは成長し、常にパーンダヴァ兄弟、中でもビーマを敵視し憎しみをつのらせていった。おそらく、巨躯で怪力のビーマが、最もドゥルヨーダナ自身に性質が近く、それゆえに一層憎しみもつのったのであろう。
やがてユディシュティラが王国を得てインドラプラスタに素晴らしい宮殿を造ると、ドゥルヨーダナはその美麗な宮殿とユディシュティラらの富に激しい嫉妬を抱いた。叔父のシャクニが甥の悩む様子を見て、ユディシュティラにいかさま賭博をしかける提案をすると、ドゥルヨーダナは大喜びでその計画に乗り、結果、パーンダヴァとドラウパディーを王国追放の憂き目に遭わせた。
この骰子賭博が原因でクルクシェートラの戦争が勃発した。戦争の最後にドゥルヨーダナはビーマと棍棒で一騎打ちをして、腿を打たれて倒された。これは、ビーマの反則であった。ビーマはドラウパディーが賭博の時に受けた屈辱を晴らすため、あえてその腿を打ったのだった。
倒れたまままだ息があったドゥルヨーダナは、武術の師ドローナの息子であるアシュヴァッターマンを最後の軍司令官に任命した。アシュヴァッターマンは生き残りの二人を連れてパーンダヴァ陣営に潜り込み夜襲をかけ、殺戮をほしいままにし、火をつけて陣営を全滅させた。生き残ったのはパーンダヴァ五兄弟と、クリシュナ、サーティヤキの七名のみであった。
アシュヴァッターマンから夜襲と焼き討ちの報告を聞くと、ドゥルヨーダナは息を引き取り、天界へ昇った。クルクシェートラで命を落とした者は皆、天界へ迎え入れられるからだ。

このように原典ではアルジュナとクリシュナ、カルナとドゥルヨーダナが「対」を形成し、この二つの対が対立関係を持って物語を進行させている。しかしFGOでは、この四者による構造の中からアルジュナとカルナが抽出され、宿敵同士として対立関係を持ちつつも、構造の上では「対」となって現れてくる。しかもその構造には「善悪の反転」が認められる。カルナは「善」として行動し、アルジュナは、「だから私は滅ぼす側。貴様が善につくなら私は悪につく」と言って、悪の側に与するのだ。そして両者は「対等のものとして」一騎打ちの勝負をすることになる。

ところがこのアルジュナとカルナの構造は、実はインド神話の深い領域とつながっており、おそらく無意識のうちに、それがくみ取られているものと思われる。先述のように『マハーバーラタ』においてはアルジュナとクリシュナ、カルナとドゥルヨーダナの対が強調されているわけだが、実はアルジュナとカルナは、それより古いヴェーダの神話に遡る対立関係を持っている。
アルジュナの父はインドラ神で自然現象としては雷である。一方カルナの父は太陽神である。雷と太陽は、自然神話に還元して考えると、対立関係を持つ。雷に伴う雨と雲は太陽を覆い隠すからだ。実際、インド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』に、インドラが太陽神の戦車の車輪をくじいた、という話があり、雷雲によって太陽が覆い隠されたことの神話的表現であると見ることができる。ここでは明らかにインドラと太陽神は対立関係にある。
この対立関係が、FGOでアルジュナとカルナという形で再現された。FGOのインド両雄の原型は、『マハーバーラタ』よりも古いヴェーダの神話にあったのだ。


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