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紹介文だけで本を買う
エスカレーターを降りて数歩、足を進めたらカフェの入口だった。その手前、脇に細い通路が伸びて棚が一列に並んでいる。
重厚なウッディの書棚には本があるが、ふつうの書店と違っているのは、本には紙製のカバーが掛かっていて、装幀もタイトルも、もちろん中身も見えない。
1冊手に取ると、ブックカバーは濃いブルーに白地でいろんな本の背表紙が印刷されたデザインだ。カバーの本にタイトルはないので、この書店そのものを表した図柄なのだろう。そして、それぞれの本のカバーの上に1枚、メモ帳サイズの紙に書かれた「本の紹介」文が乗っている。全体は透明なラッピングがされていて開けることはできない。つまり、この紹介文だけで本を選んでねという試みだ。この通路が書店だったのか。本棚は一列しかなくて、1000冊くらいのものだろう。サイズはさまざまで、文庫本、新書、ハードカバーの単行本、写真集っぽい大きいサイズのものもある。
せっかく来たのだから1冊は買いたい。紹介文を目で追うと、自分で読みたかったり、本が好きな、あるいは好きではない誰かにあげたかったり、といった本ばかりで何冊でも買いたくなってしまうが、1冊だけと決めてきたのだ。
どれにしようか迷っていると、次の紹介文に釘付けになった。
つまり、人類代表になる、ということだ。学力も体力も対人能力もトップクラスが集結する究極の面接。彼らに求められるのは「ストレスに耐える力」、
危機を乗り越える力」。そして試されるのは「人間力」だ。
働いている人すべてに捧げたいノンフィクションレポートである。
今日の本はこれしかない。だって、「働いている人すべてに捧げたい」ってあるのだから。「自分働き方改革」を進めているわたしがいま読むのにこれ以上ふさわしい本はない。というわけで、まずは本だけ買う。カフェは少し列ができていてウェイティングリストに記入したが、10分ほど待って入ることができた。
店内は「本を読む」明るさは確保されているが、照明はやや暗めである。本を読む人が多くて、おしゃべりに興じる人などいない。ひとり用、カウンターのような席に案内されるが、透明なアクリル板で区切られた隣の席とはほどよく離れていて、隣人が気になるほどではない。目の前は木製の板があり、その向こうにはまた別の客席がある。けれども仕切り板の高さがかなりあるので、向こう側の人の顔は見えず、気配を感じることもない。完全に落ち着いたひとり用空間だ。
オリジナルブレンドを頼んだ。珈琲はドトールだから間違いないとは思うがどんな味だろう。覆面の本をすぐに開けてタイトルを見たかったが、珈琲が来るまでは我慢しよう。
テーブルを見ると、このカウンター設えの席は天板がガラスになっていて、下に本が置かれているのが見える。そう、こんなところにも本があるのだ。カバーはなく本の表紙もタイトルも見えるし、ラッピングされていないので中を開けてページをめくることもできる。どうも自由に読んでいいらしい。そうか、本を買わなくても、自分の本を持っていなくても、ここにある本から選んで読むことができるのか。
だが、それは次の機会にしよう。いまのわたしは、さっき買った本のタイトルが知りたくてうずうずしている。もう待てない、と思っていると珈琲が運ばれてきた。
まずはひとくち啜ってみると、透明でストロングな味わい。酸味があまりないところもよい。珈琲が好みの味だったことにほっとして、覆面の本のセロテープを爪の先でそうっとはがしてラッピングを外していく。ブックカバーがかかっているので、まだタイトルも中身もわからない。
どきどきしながら1ページめくると、あっ! こういうタイトルだったんだ。新書だから、裏表紙に少しストーリー展開もある。あーそうだったのか。そっかそっか。こういう話なのね。ノンフィクション・レポートってここの世界の話だったのか! 覆面を覗いてタイトルを知り、自分に合わない本だったらどうしようと思ったが、その心配は無用だった。
すぐに読み始めて、珈琲に途中でミルクを入れようと思っていたのに、それも忘れてしまった。
1冊読み終えてからカフェを出たかったが、入り口に目をやると、先ほどよりも並んでいる人が多くなっている。ブックカフェとはいえ、長居は禁物だ。というわけで本をバッグにしまってストーリーの続きを想像しつつ、荷物を手に持つ。真鍮の(ような)鍵がテーブルに置かれており、どうやら伝票代わりであるらしい。こういう仕掛け、ほんとうにわたしは好きなのだ。
本といい、珈琲といい、どうしてここはこんなにわたしの幸せスポットを突いてくるのだろう。読み終えたらまた来なくては。