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『完全無――超越タナトフォビア』第百十六章

無から有は生まれない。
有から無は生まれない。
しかし、有は無い。
完全無。
それだ!

ちょっとここで、サービス精神として、電子のスピンほどの自転をこの章の話頭に施してみたかったのだが、そんなことよりも言いたいことが次から次へと自走式に出てきてしまうらしい。

「あの」、「この」、「その」、「かの」、「どの」、などのような表現とそれに付随するところの、たとえば、指向性、指示性、主体性、客体性、能動性、受動性、などという、言わば言語学的なポテンシャルの解析をあらゆる時空から無視してみよう、と試みるのが、完全無という思想の魂胆であるかもしれない。

そして、たとえば、「関係」、「因縁」、「因果」、「相対」、「相関」、「眼前」、「現前」、「手元」、「先行」、「先験」、などの単語から想起されるような「幅」的概念が、ほんの一か所であれ主張の一部に組み入れられているような思想や哲学からは、わたくしたちは距離をもって接するべきであろう。

完全無の思想に通暁した者ならば、沈思黙考の態度で、一般的・常識的知性に固執する頽落者に対しては、静やかに瞳を閉じつつ抗弁することができるはずなのだ。
 
もちろん、完全無そのものは沈黙すらしない。

完全無は存在しないという体(てい)で、メタファーとしての原約として、自身に安らぐこともなく、自身を見詰め返すこともなく、完全に無い。

完全無はいつでもどこでも、――あらかじめすでに――「幅」がない、ということ。

「世界の世界性」とは、有でもなく無でもなく、それらを中道的に超越したステージなのだと観想せよ、というセルフ・マインドコントロールとしての宗教的努力目標は無効だ。

「世界の世界性」とは、教説ではなく、世界というものが超純粋的に無である、という主張すら否定する何かしらの体感・体験である。

完全無である、というものは、誰もが証明できない、証明できないが故に、完膚無きまでに無であり、足掻き続け、のたうち回り続けたとしても、完璧な無は、完璧な無であるが故に、無という概念すら亡きもの・無きものにする。

動的であり続けざるを得ない無限でもなく(もちろん、動性も静性も属性として持たない、という条件付きであるならば、完全無も「限りがない」という無限の概念を含む、とも言えるが、もちろん、そのようなイメージ化は――あらかじめすでに――無効化されていることには注意すべきだろう)、そして、静的に落ち着いてしまわざるを得ない有限でもなく、完全無とは、対義語を超えつつ、その超越すら見つけ出すことのできない不可思議であり、不可思議の無意味さでもある。

完全無を、何かと等値にすることはできない。

何かが何かに等しい、というオペレーションは成立しないのである、完全無に「おいて」は。
 
もちろん、「おいて」という文法的領野も存在しないのだが。

「x=a」の「x」に当て嵌まるものが、無いのである。
「a」に当て嵌まるものが、無いのである。
「=」に当て嵌まるものが、無いのである。
そして、すべてのことばが、無いのである。
「そ」も「し」も 「て」も「、」も「す」も「べ」も「て」も「の」も「こ」も「と」も「ば」も「が」も「、」も「な」も「い」も「の」も「で」も「あ」も「る」も「。」も、「無い」のである。

簡単な話だろう。

しかし。

ここで、完全有という誤謬を思い出してほしい。

何もかもがあり、すでに何もかもが起こってしまっている完全体(態)としての世界というものは、あらゆる何ものをも含んで「しまって」いる、ということなのだが、それを完全有という安易なことばによって定義し、世界のありありとした側面における、そのような完全性を表わす場合には、有という文字を使う方が効率が良いだろう、という点を見込み過ぎて、わたくしは完全有という概念をしばしの間、推し続けてきたわけだが、何と今や完全有というピン概念も、完全無-完全有というコンビ概念も解消して、概念としては孤高の虚偽として霧消してしまったことに注意してほしい。

あらゆるすべてがもうすでに「ある」、ということは、あらゆるすべてにおいては些細な差異すらも許さない、という完全有の思想は、完全無の思想の思惑とは対等ではなくなってしまったのだ。

いわば、完全無と対等に結び付くことのできる弁証法的アンチとしての資格を剥奪されてしまったのだ、このわたくしの、この作品の成り行き上の推論によって。

それは、以前のどこかの章で偶然にわたくしが気付いた、いわば僥倖としてのアクシデントであったことを思い出してほしい。

今や、完全有とは、有と無とが造作なく無邪気に戯れる形而上学的-前-最終形真理へと格下げになった概念のことなのある。

完全有とは、例えるならば、誰も観る者のいない動画(ダミーワールドという名を持つメタファー)が延々と、無動として流れている、と定義できるようなものであって(つまり「有るか無きか」を議論するような人間的スケールの知によって織り成される世界であって)、動画の周囲、動画の外部については触れることができない、そのような世界的状況を概念として抽象化したもののことである。

件の動画の中では、存在者たちがありありと有的な生活を送る振りをし(そのような暮らしを「幻のようだ」とか「夢のようだ」と例えることが多いだろう)、時間の流れ、歴史の流れ、存在者たちの変化する心身を、素朴な実在として認識しつつも、無という概念の不可思議を世界の共通基盤の片割として有に混在させるだろう。

そして、その形而上学的-前-最終形真理動画の果てはどこにあるのか、と懐疑することだろう。

動画の中の存在者たちは、動画の中で、完全有そして完全無の近似値となるような概念の議論を交わすようなシーンを構築することがあるかもしれないが、動画の中の彼等は完全有そして完全無をイメージすることはできない、という結末をいつか迎えるだろう。

流れの中にありのままに存在していると勘違いさせられ続けている彼等が行き着けるのは、有限という概念、もしくは無限という概念(ただし、完全無自体も「限りが無い」という意味合いにおいては、たしかに「無限」をも含むということは正しいのだが、ここでは動的な無限を想定している)であって、そのどちらもがニセモノの無と接してしまう、といういかがわしい不条理を疑いもせず、日常をやり過ごし続けるという頽落からは逃れられない。

完全有。
 
それは、完全無にとって味方でもなければ敵でもない存在。

言わば、物言わぬ踏み台に過ぎないのだ、完全有とは。

 まさに!

それは、形而上学的-前-最終形真理。

あらゆるすべてが「ある」ということを、表し得る記号は厳密には、無い、ということをもって、完全無と完全有とを等値とすることはできない、と強弁させて頂こう。
 
完全有という概念に縛られると、あらゆるすべてが「ある」ということは、完全に何ものをも表わし得ないということであり、あらゆる可能態にある、あらゆる潜在的要素同士が比較されることもなく、その差異が現働化しつつ実在する姿を認め得ない、ということを無的に空動する現象を真理として布置してしまうだろう。

さらに、有からすべてをマイナスしたものが無である、といったありきたりな発想はもはやキング・オブ・オワコンである、とここで声高らかに唱えておこうか。

そのような発想から遺伝的に継承され続ける陳腐な思想こそが、ニセモノの無を量産し続けてきたのだ、歴史的に。

しかし、有、つまり「ある」の正体とは単純に「無」のことなのであった、要するに、「ある」ということばを人間たちが酷使するとき、それが意味するものは「無」という反転した概念だったのだ、ということを告白したいわけではない、ということはこの段階で告げておきたい。

そもそも、有と無とは対義語ではないのだから。

有と無とは、弁証法的に対称性を持ち得ない。

とにかく、ただ一つ言えるのは、人間たちが、ことばの使用法を延々と誤り続けることがなければ、という気落ちのネガティヴさを逆転させて、あらゆる言語体系から、有すなわち「ある」にまつわるあらゆる単語を――あらかじめすでに――無化されたものとして、ことばをゼロから構築してゆく、そのようなシミュレーションを誇り高く固持しましょうと、提案したい。

タナトフォビアで懊悩するあらゆる人間たち、にとってそのようなシミュレーションが幸いとなるような作品であることを願っている、ということは偽りではない。

たとえ、あらゆる思惟、つまり虚妄の結ぼれは、完全無の思想によって――あらかじめすでに――ほどかれていようとも、世界そのものへの無謀なる攻撃など、超超越的に無効だとしてもだ。
 
完全に「ある」ということも、完全に「ない」ということも、人間たちには想像することはできない、という点では同じ属性を持っているとは言えるのだが、しかし、完全無は完全有とは位相が違うが故に、互いに笑みを交わすことは不可能なのだ、と「完全有-完全無」論者は揺さ振りを掛けてくるかもしれないが、そのような曖昧なる前段階としての真理に留まるような思想からはいち早く逃走線を確保すべきだと思う。

想像すること、沈黙を破ることから始めたとしても、最終的には、想像するなどという暴挙は控えざるを得ない、そして、感性だけではなく、知性や理性を働かせることのできない完全無という不可思議は、もはや体験・体感すら捨て去ることでしか、到達できないのかもしれない、とあきらめることである。
 
そして、そのような態度を無的に許容するのが完全無という「世界の世界性」なのであり、果たされぬ「原約」という無体験・無体感なのであり、概念と定義を超えたところにも、まさに「無い」、完全なる無なのである。

人間たちが現実的に存在できるのは、ダミーワールドという、あるかなきかの、すなわち、あるわけでもなくないわけでもない世界に過ぎない。

それは、人工的な代替物としての世界、人間たちの人間たちによる人間たちだけが定義し得る世界、すなわち、それをダミーワールドをわたくしは名付けたのだが、「dummy」の「world」にしか生きられない人間たちが何を語ろうとも、世界そのものには通用しない、という一見すると突飛な発想も、だからこそゴリ押しすることも可能なのである。

「dumb」すなわち「口のきけない人」という語から派生した「dummy」、それを冠する世界をダミーワールドというのだ。

ダミーワールドにおける「世界の世界性」は、完全無という「世界の世界性」とは超越的な(メタフォリカルな超越的)位相にある、ということなのだ。

よって、わたくしのあらゆる発言もダミーワールドでしか功を奏しない。


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