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『完全無――超越タナトフォビア』第六十一章


「動」が「静」に帰結する、あらゆる形態の計算式の解が定まること、それが有限という概念である。

世界における、現象としての事態の生き様が、未決であろうと既決であろうと、有限とは、有限の外部に他性の取り巻きを要請せざるを得ない概念であることに間違いはない。

他性に囲繞(いにょう)された有限における「有」とは、「完全有」としての「有」ではなく、前-最終形真理的な「有」であり、前-最終形真理である限り、その「有」は無限へとどこまでも墜落してしまう脆い存在者である。

そして、有限というものが無限というものに反転し続ける限り、それが絶対性を帯びることも、相対性を帯びることもない。

無限においては、絶対性も相対性もその立ち位置を定めることができずに、前-最終形真理的な意味合いにおける全体性(単なる部分の総合体としての「一」)に吸収されてしまうからだ。

有限とはつまり、無限の到来を忌避し得ないということだ。

そして、無限とは最高度の動的形態を持つ。

速度においても濃度においても大きさにおいても。

ほぐして言えば、人間たちは有限という観念をその脳裡にイメージしているはずだったのが、突如として有限の輪郭が溶け出してきて、見てはいけないものでも見てしまったかのように、無限に拡がり続けるかたちあるもののイメージを持たざるを得ない、という情況に放り込まれる、ということである。

たとえば、ホワイトボードに丸を大きく書いてみる。

その丸が世界だ、と仮定するときの、世界としてのその丸は、成立要件として、必ず丸以外のスペースを希(こいねが)うはずである。

ホワイトボードは、その成立要件として、つまり時空論的、因果論的な背景として、ホワイトボード外のあらゆる情報を呼び覚まさざるを得ない、ということである。

ホワイトボードは、ホワイトボード自らの成立要件によって、外部性を増築せざるを得ない危機に常に瀕している、ということでもある。

ホワイトボードはホワイトボードとして主体化する限り、同時にそれは客体化され得る、という分裂の儀式にも参加せざるを得ない、ということである。

ホワイトボードを見ている主体、たとえばそれが人間ならば、なにものかを客体として外在化できる能力を所持しているわけだが、たとえ、ホワイトボードという無機物が、視界を構築できる機能を持ち合わせていないとしても、ホワイトボードを見ている主体と、ホワイトボードという主体とは、まなざし合う限りにおいて、それぞれがそれぞれにとっての他性として、つまりは外部性として、無限の時空という背景にいっしょくたに投棄されてしまうのである。

このように、無限や永遠という強制的な概念であるならば、頽落していようがいまいが、人間たちにとっても簡単に表象できる類の代物であるし、ことばとして論理的に表現することもできる。

その表象や表現が、第三者としての主体にとって正しいか正しくないか、ということは判別可能であるとしても、その表象や表現に対して、批難に値するかしないか、という選択肢を設けることは、無意味である。

あらゆる表象や表現においては、いかなる善と悪という仕分けは無効である。

そして、頽落しているが故にであろうか、無限や永遠などの概念を、美しいものとして感じ入る傾向を、なぜか人間たちは持っている。

いや、持っていて当然なのである。

美とは不在、いや非在の予感であり、世界という風景を美しく思えるのは、世界の非在を、世界の痕跡として見るからである。

何かを美しいと思えるのは、儚(はかな)さを識っているからである。

それが頽落した人間たちの存在するエリア、すなわち前-最終形真理であり、美しさや儚さを包み込むのが愛という分節であり、愛とは分節である限り、世界がそれを本質として回収することのない、幻影でもあるのだ。

人間たちの負い目である幻想束縛性という属性は、人間たちにとっては必要だったのだろう。

たとえ、幻想という有無のあわい的存在が「世界の世界性」として、世界には求められていなくとも。

しかしこの作品においては、幻想から解き放たれなくてはならない。

たとえば、農村から遠目に見える熱帯雨林の深奥、それは農村から距離を取ることで幻想と成り得る風景だ。

しかし、幻想を幻想として幻想外の領域へと差し出すためには、幻想を景色(時空的因果関係そのもの)として夢見ることだけでは、埒が明かないのである。

わたくしの思想において、神などということばは用いたくないのだが、敢えて使用させてもらうとすると、濃密な森の奥への恐怖は、神への畏れにも似て、触れがたき圏域であり、畏れは聖性として人間たちの思惟に一旦ストップを掛ける。

しかし、そこからの一歩(禁忌を破ること)が、実は、「世界の世界性」への微々たる前進となるのだ。

前-最終形真理から【理(り)】への旅とは、その一歩一歩が、美しさや儚さをひとつひとつ丁寧に置き去ってゆくような道程のことであり、一呼吸ごとに愛という愛すべきものを、「世界の世界性」へと生贄として供犠に付すことなのである。

人間が人間を抱き締めるとき、彼らは彼らの外側の背景すべてを引き受ける。

抱き締め合うとき、人間は人間の外側という無限の重みそのものをも抱かねばならない。

人間たちは、彼らの愛の「抱き締め」を抱き締め合うときに、互いを無の輪郭として包み込んでいるのだと、感じるべきなのだ。

なぜなら、「世界の世界性」とは完全無であり、完全無とは完全有という完結してしまった幻惑的抱擁と同値であるはずであり、互いにその指先に力を込めることは、もはや不可能だからである。

無の輪郭が交わるとき、そこに、ざらついた音の流れは、ない。

無の輪郭が交わるとき、そこに、444×444のような鼻を衝(つ)くにおいは、ない。

無の輪郭が交わるとき、そこに満艦飾の渋みという味わいは、ない。

等しく、透明に、等しく、暗黒に、愛が世界を忘却する。

しかし。

世界は完全無-完全有として――あらかじめすでにこれからも――抱き締め合っている。

それゆえに、もはや、あらゆるモノ、あらゆるコトはふたたび抱き締め合うことは、ない、のだ。

植物のすべては草原において枯れ切っている。

あらゆる幻の蝶の到来を拒むかのように。

主体が追い掛けるべき蝶は存在しない。

追い掛けられている蝶が主体であることも、ない。

追う者-追われる者という「抱き締め」は、「世界の世界性」において、有限-無限という「抱き締め」が属性として成立しない限りは、ただの非力な幻影に過ぎないのだ。

完全無‐完全有とは、イメージすることも、記号を使って何らかの式で表すこともできない、完成無き完成物のことであるのだろう。

だがしかし、人間たちの対義語、そして否定語恐るべし、と言わざるを得ない。

ひとたび「真理」、と口に出したとたんに世界は離散してゆく。

【理(り)】ということばにも対義語や否定語を設定することはもちろん可能である。

しかし、ことばで何かを伝えねばならぬときには、仮の姿に頼らざるを得ないという足枷は、狐族であるわたくしにとっても限界状況として現前する。

対義語や否定語についてこれまで散々に否定することで成果となると標榜されてきた、わたくしの思想の根幹としての【理(り)】、その究極の王の中の王としてのことばですら、不正確な、襤褸を纏った表現とならざるを得ない、ということである。

だから、わたくしの強弁する【理(り)】とは、対義語関係無き、否定語関係無き【理(り)】である、ということであり、便宜上「対義語関係無き」そして「否定語関係無き」という部位を省いているのだ、ということをご了承願いたいのである。


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