『完全無――超越タナトフォビア』第八十八章
読者の方々よ、あなたがたがどこへ出かけどこへ到達しようとも、あなたがたは同じ時空、位置のない点を無的に足踏みしているようなものだ。
これは確かに下らぬ比喩的表現であるかもしれないが、前-最終形真理のその先の【理(り)】に関しては、すべて比喩でしか表現できないという枷をも同時に示唆しているのだ。
飛行船だろうが宇宙船だろうがロケットだろうが衛星だろうが光子だろうが、くしゃみされた鼻水だろうが、地点Aから地点Bへと移動しているわけではない、という思惟。
位相無き消失の場、まさにそういう状態の完結性として、いや、もう少し精確に言い直すならば、ありのままの無的な定在としてすべての存在者は、ただそのように、ある、つまり、ない、という完結性に住まう。
あなたがたとあなたがたを取り巻くすべての事象との間には、確率論的な距離があるからこそ、事象を統計学的に認知でき得るのではないか、という短絡的提議は完全無-完全有という世界における前提としては、不合格である。
根元事象、余事象、空事象、排反事象、確率空間、確率分布、確率変数、そういった数学的概念の概念付けネットワークは、「世界の世界性」にとっては、蚊帳の外での再現的ダミー、すなわち、無的に完成してしまっている世界の「原約」に対する明々白々な乱逆でしかないのであり、その勇猛果敢な人間たちの探究精神に対してはある程度の讃辞は惜しまないが、ともかく、人間たちの生み出すあらゆる数学的概念とは、いわば後付けの、後追いの、帳尻合わせの、尻拭いの仮説に過ぎない、ということであって、それらはもちろん人間たちにだけしか通用はしない。
先刻、無的な足踏みという表現を使ったが、精確に言明するならば、何者も何かを自由意志的に動かす(働かせる)ということはできない、ということも、そこには含まれている、ということに注意して頂きたい。
こころやからだだけでなく、己の魂さえも、動かすことはできない。
運動させることはできないし、運動する主体もあり得ないのである。
他動も自動もない。
もしも意識が運動のプロセスを認知するならば、そのプロセスはダミーである。
なぜならば、ニセモノの無とは、ニセモノもホンモノもない、すなわち対義語も否定語もない世界そのものをどうにか模倣しようとして産出されたダミーとしての無であり、常に有と否定語関係を強制されている日常生活界のありきたりな掟を信じ込んでしまってるからである。
そう、ニセモノの無は、人間たちが創り出した誤読を誘う概念に過ぎないのだが、そのような代物が「世界の世界性」としての「原約」とは酷似していない、ということを、何の悪意もなく人間たちへ通達することを、すでにして拒んでしまっているのが、完全無、すなわち完全有なのである。
デカルト思想的な延長なる概念、それは文字表現としては、幅でも高さでも長さでも何でも構わないだが、そういったあやかしの鼓(つづみ)に音頭を取られてしまうようでは、人間たちは赤い恥に塗れ続けるだけではないだろうか。
もちろん、今ここで語りを提供しているわたくしも、その一員となる資格を有してはいる。
有してはいるのだが、そういった日常生活的・一般常識的地平への頽落に足を滑らせずにいられるのは、やはり、わたくしがタナトフォビアを克服したあの瞬間に閃きつつあった、この完全無-完全有という滑り止めによる摩擦力のおかげであるのだろう。
わたくしは、今や、科学的思考の支配する日常生活界におけるすべての事象のプロセスとやらに、もはや無の連なりを感じることしかできないでいる。
「ゆく河は流れない」。
だがしかし、それは喜ばしき智慧なのではないだろうか。
このきつねを見よ、と快哉を叫びたい。
そうしてその無の連なりが、絶対的でも相対的でもなく、絶えず隙間なく無的に位置を変えつつ、その位置をも自ら壊すことで無に帰してしまっているという、それこそ科学的事実の先にある「世界の世界性」としての「原約」を、何の躊躇もなしに瞬時に感じ取ることができるのだ。
そうして、頽落すべき余白としての、瞬時というその幅、その瞬時という幅さえも、あらかじめ消去された存在として世界に行き渡っているのだ、という非現実的現実感にも似た無の体感によって、わたくしのからだとこころをも超存在論的に完結しまっていることに気付くのだ。
そしてそのような状況が、実のところ哲学におけるあらゆる未解決問題の解決にも役に立つのではないかと、わたくしは疑義なく判断してしまっているのだ。
すると、いつの間にか、深呼吸なるものが始まっているのだ。
深呼吸とは、風を分節する、つまり環境というニセモノの世界の総体に切れ目を入れてゆく行為だ。
それは、前-最終形真理としてのニセモノの世界におけるれっきとした事象ではあるが、わたくしきつねくんも、人間たちと同様に生きものである以上、ニセの世界と、ニセでもホンモノでもない完全無-完全有という世界を、認識論的に絶えず往還せざるを得ない、ということも、ある意味では、つまり限局された態度(日常生活界のルールに従うスタンス)においては正しい。
しかし、ニセモノの世界におけるあらゆる「学」の概念で何か哲学的なことを語ったとしても、「世界の世界性」たる「原約」に触れることは一切不可能である、というジレンマが常に聳え立つのだ。
なぜなら、日常にはニセモノの世界しかないのだから。