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『完全無――超越タナトフォビア』第八十六章

人間たちは過去や未来を寵愛している。

人間たちは過去と呼ばれる曖昧な観念、過去の記憶というあるかなきかの幻像内容物の残滓に執着し、切なくなったり、うれしくなったり、ロマンに酔い痴れたりするのだが、未来と呼ばれる観念に対しても同等の思いを馳せ、シミュレーションし、将来を夢見ることで都合よく辻褄を合わせることができる現在、というこれまた脆弱性の高い幻像を、頬杖を突きつつ見据えるのだが、それらの時間概念たちにリンクされた記憶と想起のイマージュが、脳の中ではありありとした表象として(現実味などという陳腐なことばがよく援用されるが)像を結ぶことが多いのも、すべては「起こってしまっている」(その点では、完全無-完全有という見地は、「心の哲学」などで扱われがちな究極的な決定論ともその袂を分かつ)からだと言えよう。

なぜならば、世界とは「決定されている」わけではなく、決定することすら不可能なほどに完璧に無、だからである)のであるから、人間たちの分節能力によって、世界を記憶と想起のイマージュによって部分的に再演しているに過ぎない、という一応の哲学的説明が可能だからである。

ただし、先程も括弧にくるんで小声で述べた通り、わたくしの提唱する【理(り)】とその体得とは、安易な決定論とは微妙にその質を異にしている。

言わば、わたくしの【理(り)】が新しい思想と呼ばれ得るとするならば、既存の決定論における世界の構造の捉え方のような、まさに確固たる動的な幅を持つ、つまり、その構造を緊密な論理によってシミュレーションできるような類いのものではなくて、徹底的に無的で静謐そのものへの憧憬であるからである。

起こるというよりも、すでにして、ある、からである、と告げるだけでは、事足りない、ということ。

思考は現実化する、おもいが未来を引き寄せる、などという法則をあっけらかんと受容する単純な愛らしさが、人間たちには属性のひとつとして備わっていると思うのだが、そのラヴリーな癖に留まっているだけでは、世界が完結されたところの無的なる存在感をイメージする段階には達することができない。

あらゆる時空という概念を超越する完全無-完全有をすでにして人間たちは経験してしまっている!

すでにして経験してしまっているものに「間」などない。

幅のあるものなど、もはや、あらかじめない!

ちなみに、わたくしがこの作品においてしつこいほどに「幅」と呼んでいる概念は、縦・横・高さ、などの空間を部分的に占めるための条件すべてをひっくるめた表現であることに注意してほしい。

ともかく、このような強弁に見劣りしない、完全無-完全有としての「世界の世界性」に対する探究がこの作品であり、それに対して、心身を超越しつつ、世界を丸ごと無的に掴み取るための究極的な体感のことを、わたくしは【理(り)】と呼んでいるのだろう、ということは明言したい。

もうすべての無を手にしているのである。

手にしていることには絶対的に気付くことができずに。

人間たちが過去と呼ぶものも、人間たちが未来と呼ぶものも、人間たちが現在と呼ぶものも、すべての「あるかなきか」の対義語から締め出され、人間たちはその掌中に時間のぬくもりを羽根ほども感じることはできない。

なぜならば、そのようなことばは体感として完全に無であるから(すなわち、完全に有であるから)である。

完全無-完全有とは完全無-完全無であり、完全有-完全無とは、完全有-完全有であり、いかに文字のフォルムが違うと言えども、無と有とは、全くもって同じものである、ということが根本的なる法である。

(と、わたくしきつねくんはこの章の最後の数行においては、瞬間的に、声音を仙人風にアレンジして、チビたちに向かい、敢えてまじめくさって眉をひくつかせつつ言い、テーブルの角ぎりぎりに据えていた生傷のない方の肘がずれ落ちそうになるのを、わたくしは何とか防いでいるのだよ、というアクションをちょっとコミカルに見せびらかしながら、ほんの一瞬間、唾を飲み込み、チビたち全員の吐息を目視しながら、またも哲学的なのか非哲学的なのかよくわからない、そんな話を続けようとするのだった。)


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