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『完全無――超越タナトフォビア』第八十七章

生まれてきたボーイズ&ガールズ(セックスとジェンダーの違い、先天性と後天性に関しては別の話)も、生まれてこなかったボーイズ&ガールズ(セックスとジェンダーの違い、先天性と後天性に関しては別の話)も、みんなして世界にはすでにして遍満、どこまでもひろく円満、無的に完全なる世界として轟き渡っている、ということ。

つまり、どんな生誕者もかつて存在したことがない、ということ。

個人は存在しない、ということ。

もちろん、私という主体は存在しない、ということ。

生まれる生まれないに関わらず、すべての可能性は、成就しようとしまいと、すでにあってしまっている、ということ。

すべての不可能性もすでにして、あってしまっている、ということ。

要するに、個物の集合体としての世界はあり得ないのだから、『すべての何々』という言い草をナンセンスに帰さない限り、「世界の世界性」たる完全無-完全有を見積もることはできない約束なのだ。

完膚無きまでに無的にありふれている、ということ。

たとえば、あなたが東京の歌舞伎町にいて、歌舞伎町に立ち、歌舞伎町から三重県の伊勢神宮を想起するときには、距離すなわち幅という可想的、地理学的な概念がある、という確信にいともたやすく至ることができるだろう。

その右手を伊勢神宮の方角へと伸ばしてみて、歌舞伎町のあやしげな夜のさざなみの中で、こう呟くだろう。

自分の手が届かない。

三重県の伊勢神宮、こころにおいては触れているはずなのに、むっ、これこそ距離なのか! 

自分はありありとした生々しさを得ることができないでいる!

これは何なのか。

この断絶とは何なのか。

いや、待てよ、手が他県に届いていないことが、なぜ幅を持つ、と言い切れるのか。

自分の知覚の射程内にないものに対して、勝手に何らかの幅を設けていいのだろうか。

歌舞伎町にいる自分の脳内の伊勢神宮と、歌舞伎町にいる自分の脳内の歌舞伎町、そしてその脳内の歌舞伎町に自分がいるとするなら、その脳内の歌舞伎町にいる自分の脳内における伊勢神宮とは、伊勢神宮の最初の想起、すなわち原-表象と比べてどちらが正しく存在然としているのか、どちらが存在論的な現実存在として真の姿を現成しているのか、教えてくれ、神よ、と。

あなたはどこまでも繁華街の真ん中で殴られ屋のような扮装でネオンの十字架を担がされている気分になることだろう。

さて、わたくしは、あなたにこのように言うだろう。

ではもし、伊勢神宮にいるあなたが、精確には伊勢神宮の範疇に触れてしまっているあなたが、伊勢神宮に対して、どのような幅を思いなすだろうか。

伊勢神宮にいるあなたが、歌舞伎町に対して距離があると思うのは、常識的過ぎるほど反哲学的な思惟であろう。

知性や理性が知り得ない何ものかについて、距離なる幅を想定することは、世界に対して絶対連続性を担保することにもなるし、絶対離散性をも担保することになる。

世界は何らかの粒のあらわれの戯れであるということを鵜呑みにしてしまうと、あらゆる時空に、位置と位置との相乗効果が生まれてしまう。

では、歌舞伎町という範疇に、あなたの存在意義、いや、あなたの実存そのものが触れていると体感しているときのあなたにとっての歌舞伎町を、まさにあなた自身が考察して口に出すとき、あなたと歌舞伎町との距離、幅とはいかなるものであるのか。

あなたとは、位置なのか?

あなたがどこを思い、どこへ動こうとも、世界に中心はない、世界には基準点はない、あなたはいつもその場において、無的にある、ことになっているのだ。

当然、あなたは無的にあるが故に、位置となることも許容されていない。

あなたの自己分析するどのような挙動も、あるがままにその場で足踏みをしている、幻の位相を超越したあなたという無的な主張の繰り返しに過ぎない。


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