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量的行動を怠りたくない、という価値観について



noteを書くにはスマホかパソコンか?
という文章を書いていても感じたことで、
常々日頃から自分に染みつく価値観のひとつに、
物理的な動作や量的な行動/作業自体に対する、リスペクトがあります。

例えば、
・階段とエスカレーターがあれば階段を選ぶ。
・一駅二駅先なら喜んで歩く。
・読書は紙ものが良い。
・スプレッドシートで関数を使って散らばる情報を集約して分析する時間がやりがいを感じる。
・手描きのイラストを制作する。
・床拭き掃除をゴシゴシする。
・荷物運びとか設営準備とかが嫌いじゃない。
・誰かのためにコンビニに珈琲買いに行く。
・汗水垂らして働く。
・サウナにいくとかなりこん詰める。
などなど

これまでも上記のようなことを好む傾向にある自分を形容する言葉に向き合ったことはあります。

それは、ストイックなのか、真面目なのか、健康意識が高いなのか、非効率なのか、、、など。

どれもすべての事例に適切な表現ではおそらくなくて、もっとなにか根底にある価値観に動かされているものではないか?と考えています。

答えは明確にわからないのだけれど、根底の価値観というものがあるのだとすれば、それを形成した過去の事実/記憶として確からしいのは、幼少期を共に過ごした家族だと思います。


現場で働く父親、車の移動を伴う仕事をしている母(ある時番犬にスネあたりを噛まれて大怪我していたことを思い出す)、酒屋を営み色んなところにお酒を納品していた祖父、入院する祖母のお見舞いに頻繁に通って語りかけた記憶、畑仕事をするもう一人の祖母の姿、そして大切に育ててくれたお米やお野菜を食べて育ったことなど。

そういう幼き頃の記憶や言葉にならない教えみたいなものが、ずっと無意識的に自分の価値基準のひとつになっているのだなぁと、30になってようやく振り返っているのです。

仕事柄デスクワークが多く、業務を効率化することに意識をよせ、オペレーションをいかにシステマチックに行えるか、それが絶対善であるような思いで働きながらも、同時に身体的な稼働が多く伴う行為こそを積極的に受け入れ、泥臭く働く行為自体になにかを見出そうとしていたり、実際体感として得られるものがあったりもします。

効率的に成果を出せるに越したことはないうえでもなお、自分の人生という時間を使う以上、非効率なことや身体的な行動それ自体を大切にしたいと思いながら働いているなぁと感じています。


それが何かに対する恩返しというか、行動で示すというか、苦しみを分かち合うというか、なんとなくそういう感情と紐付いていると最近気付いたのが、おもしろい発見だったなぁと思いました。


人の価値観に触れるのは楽しいし、こういう話をたくさんの方としてみたい。

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