リアリティ・トランサーフィンの考察㉒『外的意図ってなんだろう』
外的意図が働く条件は、目的にたいして魂と理性が一致していることだ、ということを前回の記事でお伝えしましたが、おそらくみなさん、まだなんだかちょっとよく分からないなあ、と感じておられるかと思います。
前回の記事では、ゼランドが外的意図と魂の一致について言及している記述をだいたいそのまま、簡潔にまとめたような内容になっています。また、内的意図と外的意図の違いと、外的意図における魂と理性の一致のパターンについては図表化することでうまく整理できたと思います。
が、迂闊なことに、大事な説明をし忘れていました。それはなぜ「外的」意図なのか? というところですね。
この表をじっくりと見ていただければ想像はつくかもしれませんが、内的意図が作用するのは「いまいるセクターの内部」で、外的意図の作用範囲は「いまいるセクターの外側に広がるバリアント空間」です。つまり、いまいるセクターからみて、内側で作用する意図が内的意図、外側へと作用するのが外的意図ということです。定義としては、このようになります。
しかしながら、第2巻の本を読んでいると、外的意図の「外的」という言葉はそれだけの意味ではないんじゃないか、という気がしてきます。というのも、内的意図は意図する主体も、その意図を実行するのも理性(顕在意識)です。いっぽう外的意図では、理性(顕在意識)が意図するのですが、それを現実化させるのは魂(潜在意識)ということです。そうすると、意図している本人(の顕在意識)にはそれを実行(=現実化)させているという実感がないということになるわけです。
このニュアンスについて、内的意図は「自分の意志内(つまり顕在意識)」で働いていて、外的意図は「自分の意志の外」で働いているという風に説明できると思います。
そもそもゼランド自身がなにをもって「内的」や「外的」としているのかは、それについて明確に記述した文章がみあたらないので、どちらの解釈もわたしの推測なのですが、どちらか一つとするなら意図の作用する範囲についての内と外という意味だと思われます。でも、もう一方の説明も的を射ていますので、実用的には内的と外的という言葉には二重の意味があると考えたほうがよいかもしれません。
そう理解すると、外的意図における本当の意図は、理性ではなく潜在意識が持っているということが見えてくると思います。
外的意図によって目的が現実化される場合、理性(顕在意識)は「そうする(そうしない)」ではなく「そうなる(そうならない)」というタイプの意図を抱くわけですが、その意図に含まれる結果(目的)を理性の預かり知らぬところで現実化するのは魂(潜在意識)ですね。このとき理性には自覚できませんが、魂(潜在意識)は「そうする(そうしない)」という意図を持ち、それを現実化させるわけです。
すなわち、ものごとを現実化するとき、あるいは目的を達成するときに実際に作用しているのはどんな場合でも「そうする(そうしない)」という意図なのですが、現実化(目的達成)させるのが魂(潜在意識)である場合は、その意図は理性である顕在意識からは見えないところ(外=つまり潜在意識)にあるということです。
そうなると、外的意図における理性(顕在意識)の「そうなる(そうならない)」という意図の正体はなんでしょうか? その意図はどこからやってくるのでしょうか? そもそも、どうやって達成するかも分からないような目的について、「そうなる(そうならない)」ことを選択する(確信する)ことなんて出来るのでしょうか?
これについてゼランドははっきりとしたことを言っていませんが、ここは大事なポイントだと思います。ここでわたしに言えるのは、「魂(潜在意識)はすべてを知っている」ということです。
内的意図とその現実化は理性(顕在意識)だけで完結しています。それゆえほとんどの人は、外的意図においても最初の意図はまず理性が生みだして、それを知った魂が理性に同意(一致)した場合、魂がこれを現実化するというようにイメージされるかと思われます。
しかし魂(潜在意識)というものは、わたしの観点では理性よりも高次の意識です。輪廻転生のモデルでは、人は肉体をもって生まれてくる前に、以前の転生におけるカルマを考慮して今回の人生での経験を計画しているとされています。それが真実であるなら、魂が理性に意図を与えていることになるはずです。
魂はなにが起こるかを可能性として知っていて、理性に気づかせようとしているのですが、理性はそんなことはつゆ知らず、自分で目的を見つけたつもりでいます。悪い予感も魂の声とは思わず、自分の経験的なものからくる勘のようなものだと考えているのが、一般的な人の理性ですね。
整理すると、理性と魂が一致するということは、理性の意図に魂が同意を与えるのではなく、魂の意図に理性が同調するということです。そうだと考えれば、すべてがすっきりとしてくるはずです。
ここでまた図を見てみましょう。
魂が快であるとは、その目的を魂が達成(現実化)させたがっているということです。なぜ達成させたいのかといえば、さきほど輪廻転生のモデルで説明したように、それが魂の計画だからです。
逆に、魂が不快なのは、プランにないことだったり、それを現実化させるとプランに支障がでるような目的の場合です。
このことを念頭に、魂が快である場合の二つのパターンをみてみましょう。まず、この場合はいずれも目的は魂のプランなので、魂は理性に、その目的を達成するという意図を持って欲しいと思っています。これにたいして理性がすんなりと「これは達成できるな。なんか知らんけどそうなる気がするわ」と考えた、つまり「そうなる」と意図した場合は、現実化されるために時間や行動は必要だったりするかもしれませんが、基本的にすんなりとその目的は現実化するでしょう。
では、理性が否定的な場合はどうでしょう。この場合も、目的そのものは魂が望んでいるわけですから、それは現実化されるべきなのですが、理性にとってはハードルが高すぎるように感じられたり、現実味がなさすぎると感じられたりして、とても「そうなる」とは思えない状態であるといえます。
ここで一つ述べておくと、意図のタイプとしては「そうなる」もあれば「そうならない」というものもあるということを書きましたが、「そうなる=肯定」で「そうならない=否定」ではありません。そうなるか、そうならないかは、ものごとがどのように起きるかという内容をあらわしているものです。たとえば「雨がふらない」という意図は「そうならない」というタイプの意図ですが、理性が「雨がふらない」ことについて肯定的か否定的かは別の話になります。
理性は「雨がふらない」ことを望んでいる(意図している)のですが、天気予報では雨になっているため、この意図にたいして否定的になっているというのが、魂と理性の一致においていうところの「理性が否定している」ということの意味です。前回の記事はこのことがちょっと説明不足でした。
さて話を戻します。前回の記事でも触れましたが、このケースはそのままでは目的が現実化することはないのですが、スライド(これはまた別の記事で紹介します)という技法をもちいることで、現実化させられる可能性があるのです。なぜかというと、もうお分かりのとおり、目的が達成されることを魂は望んでいるからです。ですから、理性をなんとかうまいこと説得して、目的達成についてポジティブになってくれさえすれば、そこで魂と理性が一致(合意)して、目的は達成されるでしょう。
次に、魂が不快のパターンを考察してみます。このパターンにおける目的は、魂が望んでいないものです。つまり、できることなら魂はこの目的は現実化させたくないと思っています。でも、人間には見かけ上の自由意志が与えられています。魂のプランはあくまで課題のようなものですから、その課題にどのように取り組むかは理性に基本的な裁量権があります。そうでなく、魂が望むことを理性になんでも命令して強制的に経験させることができるのだとしたら、輪廻転生や人生にはなんの意味もありませんね。
とはいえ、かといってなんでも理性の思うままになるということでもありません。思いを思い通りに実現させることも理性にとってよい経験ではありますが、思い通りにいかないという経験は、場合によってはそれ以上に大きな学びを理性にもたらしてくれます。
さて、まずは魂が不快で、かつ理性も否定的なケースをみましょう。これは悪い予感が現実化するパターンですが、魂としては決して望んではいないことがポイントですね。ですから悪い予感というのは、その時点では魂から理性への警告であるといえます。
ここで思い出していただきたいのが過剰ポテンシャルです。悪い予感にたいして、それを必要以上に怖れるとき(つまりネガティブに反応してしまうとき)、そこには過剰ポテンシャルが発生します。すると、ご存知のように平衡力が働いて、悪い予感が現実のものになってしまうわけです。このように書くと、現実化させているのは平衡力であって魂ではないじゃん、と思われるかもしれません。
たしかに、それはそうかもしれません。でも、そうではないかもしれません。というのも、魂が意図を現実化させる方法は、いまいるセクターからべつのセクターへの移動だからです。つまり、魂の警告にたいして理性がネガティブに反応したことで、魂が警告している出来事が存在しているセクターの周波数と同調し、そのセクターへと移動していると考えるなら、移動先のセクターには平衡力による結果が存在しているという説明が成り立つのです。魂は高次の意識の働きですから、魂のレベルで起こったことがこの現実に反映されるとき、そこに平衡力や振り子や吉報のロープなどといったものが現れてくるのだろうとわたしは考えます。
魂としては、本当は現実化を望んではいないのだけど、理性が未熟であるため、つまり怖れに支配されてしまっているゆえ、痛い目に遭うのも致し方ない。おそらくですが、悪い予感が的中してしまいがちなのは、きっとこういう理由とメカニズムによるものだと思います。だとすれば、悪い予感が杞憂に終わったときは、そこでは予感の内容を過度に怖れることがなかったので、現実化せずに済んだということになるのでしょう。
最後にもう一つのパターンを見てみましょう。これは他人の目的と呼ばれるケースで、現実化することのないものです。他人の目的については別の記事ですこし掘り下げる予定ですが、ここでは分かりやすいものとして「ネットワークビジネスを紹介されて、そこで成功しようと思った」という例を考えてみます。
ネットワークビジネスで成功するには「胴元」になるか「最初のネズミ(ねずみ講だと言っているわけではないですよ)」になるしかありませんね。そんなことはちょっと考えれば明白なのですが、言葉巧みに勧誘され、成功者と呼ばれる上位のネズミを紹介されて羽振りのよさそうな姿を目の当たりにしてしまうと、もしかしたら自分にもできるかもしれない、と思ってしまう人もすくなくありません。
こまかい話はしませんが、末端のネズミになって成功を目指すというこの状況は、ネットワークビジネスという破壊的な振り子の信奉者になることを意味しています。上位のネズミはいわば振り子のお気に入りというわけです。
振り子には振り子自体の目的(エネルギーを集めること)がありますし、上位のネズミは下位のネズミたちのお金を自分の懐に集めることが目的です。つまり、下位のネズミとしてネットワークビジネスに参加するということは、他人や振り子の目的を達成することに協力させられているのであって、本人はそこで成功することを自分の目的(願望)だと思っているかもしれませんが、そんなことを魂が望むわけがないのです。
つまり、このパターンでは魂が望んでいない目的にたいして理性がポジティブになってしまっているのです。つまり、このケースでは魂と理性が一致しないため、目的は現実化されません。つまり、他人の目的を自分の目的と錯誤してしまっている場合は、その目的は叶わないということですね。魂にしてみれば、「そりゃそうよ。気づけよ!」という話ですね😌 ちなみに、ここでダメージを最小限にするためには、あたりまえですがなるべく早く振り子から身をかわすことです。
さて、今回も思ったより長い記事になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか? このように理性ありきではなく、魂の観点から考えてみれば、どういうパターンであれば目的は実現され、どういうケースでは実現しないのかが明確になったのではないでしょうか。
そして、このように理解すると、次にこういうことが言えるようになります。
つまり、外的意図が働くのは「魂のプランに沿った目的だけである」ということです。魂のプランに沿った目的とは、いいかえると「(他人のではない)自分の目的」ということですね。トランサーフィンの考えでは、どんな願望でも実現可能というわけではありません。
大切なことは二つあります。ひとつは、実現する見込みのある目的を見極めて、その実現を意図することです。これが今回の記事の内容でした。もうひとつは、実現する見込みのない目的と縁を切ることです。こちらについては、第1巻の内容のほぼすべてがそれについての話だといえます。
それでは今回はここまでになります。読んでくださってありがとうございました🙂
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