記憶の中の建物
「その場にいた全員が、なにかを共有できた瞬間」というのは、なぜかずっと記憶に残る。大学のときのある授業で、こんなことがあった。
教室は木造家屋の2階にあり、建物はもうずいぶん古かった。トイレは和式で、床は踏むとギシギシ言う。むかしは寮として使われていたらしい。授業に出る生徒たちは、みな長方形に並べられた机を前に、互いの顔が見えるように座っていた。
自分が座っていたのは、正面と左斜め前に大きな窓の見える位置だった。外に生えている木々がよく見えて、夏には窓が緑の葉で覆われていた。
秋になった。新学期には「はじめまして」だった生徒たちも、互いの顔と名前をなんとなく覚えている。正面の窓の前には、同期の佐川くんと岡田くんが仲良く並んでいた。背後には、黄金色の葉っぱを揺らす木々が見える。
先生がテキストの解説をしていて、ふと口をつぐんだ瞬間、外でサラサラと音がする。風が吹いた勢いで、無数の枯葉が窓に当たっては落ちて行く。そのサラサラともカサカサともつかない音は、20秒ほど続いた。
音がよく聞こえた記憶があるのは、先生がずっと黙っていたからだ。先生ばかりでなく、教室にいた誰もが同じ音を聴いていた。秋の昼下がりの教室に、枯葉のこすれ合う音がいくつも重なってずっと響いている。みんな身動きひとつせずにそれを聴いている。
やっと風がおさまると、みな魔法から解けたように動き始めた。沈黙を守っていた先生は、これがあるからこの建物が好きでね、とだけ言った。そうしてまたすこし黙り、テキストの読解箇所を確認して、すぐに解説に戻られた。
短い時間だった──と言っていいのかわからない。なるほど20秒はたいした時間じゃない。授業時間が90分であることを思えば、一瞬と言っていい。でも長かった。そのあとになっても何故かずっと忘れられないくらい、長かった。
客観的に見れば、それは単にみんなが黙っていたに過ぎない。自分が気づかなかっただけで、寝ていた人もいたかもしれないし、なんで周りが黙っているか理解してない人もいたかもしれない。「みんながそれを聴いていた」というのは、完全に霊感でしかない。
でも確かにそうだった、と思う。あの、誰もが耳を澄ませ動かないでいた時間。ピッタリ揃っていた沈黙の時間と、動き出したタイミング。みな同じ音を聴いていた。教室全体で息が揃った経験は、このときも含めて2回しかない。
先生が「これだから好きでね」と言ったその棟は、コロナ禍にちゃっかり建て替えられた。自分は感染騒動が続く中、対面授業が途絶えているうちに就職したので、新しい建物は見てない。
新棟からも窓の外は見えるだろうが、もうあれほど外の音を拾うことはないだろう。拾っているようなら、それは施工不良で業者を訴えたほうがいい。就職した先で上司になった人は「ああ、これ建てたのウチじゃん。ほら君んとこの大学」と資料を見せてくれた。
それはピカピカの建物だった。あの先生、こんな情緒のないとこ避けたいんじゃないかな。もちろん耐震基準も設備も新しさもなにもかも、旧棟の及ぶところではないけれど。トイレはもちろん洋式で、床はもう軋まないだろうけど。
すべてが新式でよくなったからこそ、あの瞬間ももう訪れない。あのボロい建物、地震が来たらひとたまりもなかっただろう棟の、小さな教室をおもいだす。職場の資料は、立て替えられた木造の家屋についてなにも言及していなかった。当然だ。
現場所長の名前、工事の金額、建物全体のイメージ図、そしてもちろん工事の日程表と、現場からの報告の声。すべてが新しい棟の話をしている。取り壊しは一瞬で済んだのだろう。外の木々がどうなったかは知らない。